日本歴史地名大系 「綱島村」の解説
綱島村
つなしまむら
東は
承元三年(一二〇九)の某家政所下文(県史一)に「可令早徴納郷々五升米事」のうちに「綱島」がある。「長弁私案抄」所載の応永一二年(一四〇五)一一月日の率都婆意趣書に「世田谷綱嶋之理円所望」とみえる。同じく同年の武蔵国綱嶋橋供養願文によると、当郷近隣の僧俗を勧誘して鶴見川に橋が架けられている。また同書所載の同三三年八月日の吉良殿逆修諷誦草は詞を直して「綱嶋大中追孝」の時に用いられている。小田原衆所領役帳には左衛門佐殿「弐百貫文 小机綱島・箕輪共ニ」とある。
元和五年(一六一九)幕府直轄領。田園簿では田六四三石余、畑二三七石余で、野銭永三貫一二五文を納める。文化五年(一八〇八)には田四三町九反余、畑四五町七反余(横浜市史)。たえず鶴見川の出水に悩まされ、安永九年(一七八〇)の満水では四〇軒が浸水し夫食、種が下された。
綱島村
つなしまむら
綱島村
つなしまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報