日本歴史地名大系 「網掛村」の解説 網掛村あみかけむら 長野県:埴科郡坂城町網掛村[現在地名]坂城町大字村上(むらかみ) 網掛千曲川左岸。東は上平(うわだいら)村。村の中央にそびえる鬢櫛(びんぐし)山東麓を福沢(ふくざわ)川が流れる。南方に狐落城(こらくじよう)山・三水城山を負い北へ向かって傾斜する。慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳に「弐百九拾七石七斗九合 網掛村」とある。このうち田方一三五石四斗六升五合、畑方一六三石弐斗四升四合である。この検地は江戸時代を通じて網掛村の村高・段別の基調となっている。戦国時代、村上義清の重要な拠点とされた三水城・狐落城がある。天文二二年(一五五三)、武田晴信が葛尾(かつらお)城攻撃の時、大須賀久兵衛が逆心を起こし狐落城に攻め入ったことは村上氏にとり致命的打撃となった。 網掛村あがけむら 兵庫県:篠山市旧丹南町地区網掛村[現在地名]篠山市網掛西吹(にしぶき)村の南東に位置する。古名は中吹(なかふき)で、西方の西(にし)山の南東麓に居住していたという(丹波志)。天正一五年(一五八七)一〇月二日の豊臣秀吉朱印状(記録御用所本古文書)によれば、「多喜郡布喜・古佐・阿懸」内の二二〇石が船越景直に加増されている。ただし阿懸は「阿園」の可能性がある。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に網掛村とみえ、高二〇二石余。正保郷帳では田高一八三石余・畠高一九石余。元禄郷帳では高二〇五石余。「丹波志」に吹庄のうちとしてとみえ、高二〇六石余。 網掛村あがけむら 茨城県:東茨城郡茨城町網掛村[現在地名]茨城町網掛涸(ひ)沼の南岸にあり、西南は宮(みや)ヶ崎(さき)村。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に、阿かけ村二六九・四石とある。江戸時代は天領で元禄郷帳に「網掛村」とみえる。「新編常陸国誌」は宮ヶ崎村から分村したとし、「網掛ハ漁猟ノ網ヲカケタル所ナラント云ヘリ」「河岸問屋半左衛門ハ旧家ナリ、其先ヲ海老沢大和ト云ヒ、宮崎、網掛両村ヲ領セリトゾ」と記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by