朝日日本歴史人物事典 「村上義清」の解説
村上義清
生年:文亀1(1501)
戦国時代の武将。信濃国埴科郡の葛尾城(長野県坂城町)城主顕国の子(頼平の子とする説も有力)。幼名武王丸。左衛門佐,兵部少輔。川中島地方や佐久・小県地方に勢力を拡大しつつあったころ,武田信玄の信濃侵略が始まった。天文17(1548)年2月に信玄の軍を上田原(上田市)で破り,勢いに乗って勢力を拡大した。天文19年9月には戸石城で再度武田軍を破るが,翌年5月に同城を真田幸隆に攻め落とされてからは劣勢となる。天文22年4月武田勢に攻められて葛尾城を脱出し,再起を図ったが成功せず,越後の上杉謙信のもとに走った。これも永禄4(1561)年に起こった川中島合戦の原因のひとつとなっている。その後も旧領の回復を目指して戦うが果たせず,永禄8年越後頸城郡根知に移り病死した。信玄と戦ったことで人気が高いが,彼の出した文書はほとんど伝わっておらず,父親などに関して謎の多い人物である。<参考文献>水出熊雄『名将村上義清』
(笹本正治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報