綾野村(読み)あやのむら

日本歴史地名大系 「綾野村」の解説

綾野村
あやのむら

[現在地名]大垣市綾野・綾野町

杭瀬くいせ川右岸、綾里あやさと輪中の北部に位置し、南は野口のぐち村。年月日未詳の北野社社領目録写(北野神社古文書)に「美濃国綾野郷」とみえ、当地はその遺称地とされる。「北野社家日記」長享二年(一四八八)五月五日条に「当社領濃州文殊内中村并綾野郷事、自先々社家当知行候」とあり、京都北野社領であったが、この時以前に綾野郷には土岐直盛方の違乱があり、延徳三年(一四九一)五月の段階においても同郷の不知行が問題とされている(前掲日記同年五月六日条)慶長郷帳では村高二千二〇六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では田高一千五〇〇石余・畑高五三七石余・無地三八八石余、幕府領であるが、うち四石余は報恩寺領。


綾野村
あやのむら

[現在地名]田主丸町中尾なかお

巨瀬こせ川左岸に位置し、北は自在丸じざいまる村。中世は綾野庄が成立。慶長四年(一五九九)四月一八日の某宛行状(黄薇古簡集)竹野たけの郡「あやの村」とみえ、当村のうち三六三石余が岡田清介に与えられている。本高は二二四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高四五〇石・役高五三八石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦一〇石余・小麦五石余・菜種一石六斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗二升、人数九五、馬五(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高五四一石、文化四年(一八〇七)畝付帳では本田三一町六反余・開田一町余・畑田二町四反余・畑五町六反余・居屋敷五反余、ほかに開畠六反余。


綾野村
あやのむら

[現在地名]阿蘇町小倉おくら小野田おのだ

東は小倉村、西は小池こじ村に接し、南に綾野村のうち下原しものはる村がある。建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(阿蘇家文書)に、下田常陸介が沙汰する西郷に「一所十町 綾野 小陣郷」とみえる。至徳二年(一三八五)八月七日の阿蘇社領郷々注文(同文書)には「一所 あやの五丁」とあり、「さか井のさへもん三らうちきやう なんかう御たいなかゝのたいちきやう」とみえ、坂井左衛門三郎知行のほかに、南郷の北朝方大宮司惟村の代官および「なかゝ」の代官が知行していた。


綾野村
あやのむら

[現在地名]椎葉村大河内おおかわうち たけ枝尾日添えだおひぞえ

小向こむかい村の南の山嶺に位置する。大河内掛一六ヵ村の一つで、嶽枝尾組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として綾野とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑七畝余(高八升余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)大河内村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(相良家文書)によれば「日隠山」に焼畑二三枚・八反余があり、その年貢米一斗余・取銀一一匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(同文書)では高一石余。


綾野村
あやのむら

[現在地名]豊津町綾野

下原しもばる村の南、はらい川東岸に位置する。中津街道から分岐して英彦ひこ山へ至る道が南北に走る。元和八年人畜改帳では泰岩寺(召上地)分の高二〇一石余と給人五人分の高二五五石余の二筆に分けられ、家数三一・人数八三(うち庄屋四・百姓四・名子一三)、牛一〇・馬三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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