日本大百科全書(ニッポニカ) 「義士伝」の意味・わかりやすい解説
義士伝
ぎしでん
講談。1702年(元禄15)12月15日未明、吉良上野介(きらこうずけのすけ)の邸(やしき)に討ち入り、旧主浅野内匠頭(たくみのかみ)の仇(あだ)を討った城代家老大石内蔵助(くらのすけ)ら46(47)人の赤穂(あこう)義士を読んだ講談で、もっとも講釈師に尊ばれる。本懐を遂げるまでの経過を描く「本伝」と、四十七士各人(中山安兵衛、赤垣源蔵ら)の伝記「銘々伝」、吉良方の人物(和久半太夫(はんだゆう)ら)や、義士を後援した人物(天野屋利兵衛ら)を描く「外伝」よりなる大長編。『御入部伽羅女(ごにゅうぶきゃらおんな)』(1710)挿絵の生玉(いくたま)社前の図には「四十七人評判」との張り紙がみられ、『下手談義聴聞集(へただんぎちょうもんしゅう)』(1754)には「仏書講釈附(つけた)り義経記、忠臣蔵などと、かんばん出して」とあり、説法に取り入れられたことがわかる。事実、本居宣長(もとおりのりなが)は少年時代であった1744年(延享1)、説法のついでに連続で読まれた義士伝を聞いている。また、『大坂奇珍泊(きちんはく)』(1781)には、神道講釈より出た吉田天山が『赤城(せきじょう)義臣伝』で大入りをとったとある。今日のようにまとめたのは初代田辺南窓(なんそう)(1846没)といわれ、近年では2代桃川如燕(じょえん)、6代一竜斎貞山(いちりゅうさいていざん)らが得意とした。
[延広真治]