デジタル大辞泉
「安宅」の意味・読み・例文・類語
あん‐たく【安宅】
1 身を置くのに安全で心配のない所。
2 《「孟子」公孫丑の「夫れ仁は、天の尊爵なり、人の安宅なり」から》仁の道のたとえ。
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あたか【安宅】
- [ 一 ]
- ① 石川県小松市の地名。梯(かけはし)川河口右岸にあり、鎌倉初期には関所が設けられた。
- ② 「あたかのせき(安宅関)」の略。
- [ 二 ] 謡曲。四番目物。各流。作者未詳。兄頼朝の怒りにふれた義経主従が山伏姿に身をやつして奥州に落ちのびていく途中、安宅の関で富樫何某(とがしのなにがし)に見とがめられるが、弁慶の機転で無事通過する。歌舞伎十八番の「勧進帳」のもとになった曲。
- [ 三 ] 歌舞伎所作事、「隈取安宅松(くまどりあたかのまつ)」の通称。長唄、富士田吉次作曲。明和六年(一七六九)江戸市村座初演。顔見世狂言「雪梅顔見勢(むつのはなうめのかおみせ)」の一部。安宅の松。弁慶道行。
あん‐たく【安宅】
- 〘 名詞 〙
- ① 身を置くのに安全で心配のない所。また、平穏に家にいること。〔日葡辞書(1603‐04)〕〔詩経‐小雅・鴻鴈〕
- ② ( 「孟子‐公孫丑・上」の「夫仁、天之尊爵也、人之安宅也」による ) 仁を安らかな住居にたとえていう。→安宅正路(あんたくせいろ)。
- [初出の実例]「蓋学者終身之業也。苟以レ此為レ法。則安宅可レ居。大路可レ由」(出典:童子問(1707)上)
- ③ ( 普通、安宅経を読誦(どくじゅ)するところから ) 朝鮮で、一家の災厄を払い除くために行なう祈祷祭。
あたけ【安宅】
- [ 1 ] 〘 名詞 〙 「あたけぶね(安宅船)」の略。〔日葡辞書(1603‐04)〕
- [ 2 ] ( 安宅丸[ 一 ]が繋留されていたところから ) 江戸時代、江戸深川御船蔵前片側町の俗称。正徳(一七一一‐一六)頃、この地に水茶屋ができ遊び場となったが、江戸岡場所の一つで、俗に安宅長屋と呼ばれた。
- [初出の実例]「あたけの方より来る人そそり哥」(出典:洒落本・両国栞(1771))
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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安宅
あたか
[現在地名]小松市安宅町
梯川河口にあり、集落は右岸に集中する。古代からの海・川・陸の交通の要衝。もと寇が浦と記され、異国人が来襲した海岸の意とされる。大陸から渡来した船が流れ着いたことがかつてあったことが想像される。「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬条に北陸道の駅として安宅駅がみえ、江沼郡潮津駅(現加賀市)と能美郡比楽駅(現美川町)の中間に位置し、駅馬五疋が置かれる定めであった。年欠の長岡京跡出土木簡のうちに、「安宅駅戸主財豊成戸五斗」とあり、安宅駅の戸主財豊成の戸より米五斗が貢進された。伴出の木簡に延暦八年(七八九)・同九年の年紀があるので同時期のものと思われる。梯川中流付近にあった加賀国府の外港としての役割も担ったと推定され、海陸交通の要地であった。そのため商業流通や信仰の拠点となり、戦略的にも重視された。寿永二年(一一八三)五月の木曾義仲と平家軍の戦いで戦場となり、「源平盛衰記」巻二八(北国所々合戦事)には安宅の渡・安宅の湊・安宅松原などと記される。また安高とも表記される。正和元年(一三一二)と推定される白山水引神人沙汰進分注文案(三宮古記)に「河ヨリ南方 寺井 安宅 福富」とあり、白山宮に水引幕を上納し、水引神人を称した紺掻業者が居住していた。延元三年(一三三八)越前国にいる新田義貞に合流すべく、越後国の大井田氏ら二万騎は七月三日越中国へ進軍、そのまま加賀国へ進んだ。これに対し富樫介(高家)は五〇〇騎で「阿多賀・篠原ノ辺」に進み戦ったが、二〇〇騎ほどを失って那谷城へ引籠った(「太平記」巻二〇越後勢越々前事)。
能登総持寺二世峨山韶碩の門弟通幻寂霊は、康暦元年(一三七九)八月二八日安宅聖興寺門前の官橋供養をしており(「通幻霊禅師語録」曹洞宗全書)、聖興寺は通幻が開いたといわれる(「普済禅師語録」同書)。
安宅
あたけ
[現在地名]徳島市安宅一―三丁目・末広三―五丁目・大和町二丁目
福島の東に隣接する徳島藩水軍の根拠地。地名の由来については紀伊国牟婁郡安宅(現和歌山県日置川町)に出自をもつという水軍の安宅氏一族が戦国期に三好氏に仕え、大型軍船を駆使したため、大型軍船の通称「安宅」をとって徳島藩水軍の根拠地を安宅と称したといわれているが、その史料的根拠はほとんどない。近世の水軍の居住地を安宅と称するところはほかにもみられる。蜂須賀氏は入国当時、水軍に従事する水主(加子)たちの居住地を常三島に設けたが、城下の拡大に伴い、福島浦東部の当地へ移した。移転の時期については諸説がありはっきりしないが、寛永一七年(一六四〇)であろうか。寛永八―一三年の忠英様御代御山下画図には常三島の位置に「安宅嶋」とみえる。なお徳島藩領国図屏風(出光美術館蔵)には、常三島の位置に船置場が描かれており、当地移転前の安宅島の様子がうかがえる。
当地には藩の御船方の機能が集中し、安宅役所、御船屋(船置場)、鍛冶屋敷(御鍛冶蔵)のほか、藩の船頭役や水主の屋敷があった(天和三年渭津城下之絵図)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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安宅 (あたか)
能の曲名。四番目物。現在物。観世信光作。シテは武蔵坊弁慶。安宅関の関守富樫(とがし)(ワキ)は,源義経捕縛の命を受けている。兄頼朝に追われている義経は,家来の弁慶たちと山伏に変装して奥州へ落ちのびる途中,この関にさしかかる。弁慶は,東大寺復興の寄付を募る山伏と偽り,持ちあわせの経巻を勧進帳と名付けて,寄付募集の趣旨を即席に案文しながら読みあげ(〈読物〉),いったんは通過を許される。しかし,わざと重荷を背負っていた義経が見とがめられたので,弁慶は足弱なため疑われたのだとののしって,金剛杖で打ちすえ,事なく通過する。一行は山陰で足を休め,義経の不運を嘆き合う(〈クセ〉)。そこへ富樫が追って来て,見まちがえをわびて酒を勧めるので,弁慶は杯を受けて舞を舞い(〈男舞〉),別れを告げて道を急ぐ。見せ場が多い能だが,読物と男舞が中心。読物は,漢文体の散文を鼓のリズムに乗せて謡いあげる特殊な部分で,信光より前の作者にはない形式。この能の男舞には,〈延年之舞〉〈滝流シ〉などの変型の演出もある。なお義経役は子方(こかた)とする。
執筆者:横道 万里雄
安宅物
歌舞伎,浄瑠璃の一系統。能《安宅》や曲舞(くせまい)《富樫》などを,歌舞伎や浄瑠璃にとり入れたもの。歌舞伎の代表曲は歌舞伎十八番の《勧進帳》。十八番の原拠となった《星合十二段》(初演1702年2月),その後日狂言《新板高館弁慶状(しんぱんたかだちべんけいじよう)》(1702年7月)がある。長唄の名曲として残っている《隈取安宅松(くまどりあたかのまつ)》は《雪梅顔見勢(むつのはなうめのかおみせ)》(1769年11月)の道行の場面であり,《芋洗(いもあらい)勧進帳》の通称で親しまれている《御摂(ごひいき)勧進帳》(1773年11月),《滑稽俄安宅新関(おどけにわかあたかのしんせき)》(1865年10月)などがある。以上が江戸の系統で,上方にも《安宅》の後日物語の場面がある《日本第一和布苅神事(につぽんだいいちめかりのしんじ)》(1773年2月,大坂)などがある。浄瑠璃には,近松門左衛門作に《凱陣八島(がいじんやしま)》(1685),《文武五人男》(1694年7月以前),《殩静胎内捃(ふたりしずかたいないさぐり)》(1713年閏5月)などがあり,並木宗輔には《清和源氏十五段》(1727年2月)がある。その他,土佐節の《あたかたかたち》,河東節の《色あたか》,半太夫節の《安宅道行》《勧進帳》,一中節の《勧進帳》,長唄の《安宅勧進帳》などの音曲も伝えられている。
→勧進帳
執筆者:鳥越 文蔵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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安宅(能)
あたか
能の曲目。四番目物。五流現行曲。『義経記(ぎけいき)』などに拠(よ)ったもので、観世小次郎信光(のぶみつ)の作とも、不明ともいわれる。関守の武士の情を強調する歌舞伎(かぶき)の『勧進帳(かんじんちょう)』の原典としても名高いが、関守の富樫(とがし)(ワキ)と弁慶一行(シテとツレ大勢)との力の激突の演出に能の主張がある。『勧進帳』が伴(とも)の山伏を四天王とし、いっそうの様式化を果たしているのに対し、『安宅』では本文どおり12人近くの山伏が登場する。義経(よしつね)の役を子方とするのも能の演出である。偽(にせ)山伏となって奥州へ下る義経主従を捕らえるための新関が設けられる。都から北陸路にかかる義経一行。山伏に限って通さぬ関との情報に、義経は荷物持ちに身をやつす。関守の阻止。祈祷(きとう)による威嚇(いかく)。白紙の勧進帳(東大寺再建のための寄付集めの趣意書)の読み上げ。見とがめられた義経。主君を金剛杖(こんごうづえ)で打つ弁慶の苦しみ。力で制圧して関を通る一行。山中での愁嘆。関守の追尾。薄氷を踏む思いで弁慶は酒宴に舞い、ついに虎口(ここう)を脱する。以上、緊密な構成と集団による能舞台の活用のみごとさ、劇的な現在能の大作である。漢文調の勧進帳の謡はとくにむずかしい作曲で、弁慶の舞にも、寺院の伝える芸能である延年の舞を加味した、変化に富む演出が伝承されている。なお、後にこの能から、浄瑠璃(じょうるり)、長唄(ながうた)、歌舞伎などに、いわゆる「安宅物」というジャンルが生まれた。
[増田正造]
安宅(石川県)
あたか
石川県小松市の一地区。旧安宅町。梯川(かけはしがわ)の河口にあり、港町として栄えたが、1897年(明治30)北陸本線が小松まで開通してから衰退し、漁港となった。現在、織物業が盛んで、小松市街への通勤者が多く、住宅団地が建設されている。古代は加賀(石川県)国府の外港であり、加賀七駅の一つであった。謡曲の『安宅』、歌舞伎(かぶき)の『勧進帳(かんじんちょう)』で名高い安宅ノ関跡と安宅住吉神社が砂丘上にある。安宅ノ関は、源頼朝(よりとも)の命で守護富樫(とがし)氏が設けたといわれ、その関跡は1939年(昭和14)県史跡に指定された。街には廻船(かいせん)問屋の邸(やしき)も残っている。
[矢ヶ崎孝雄]
『『安宅誌』(1933・安宅関趾保存会)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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安宅【あたか】
能の曲目。四番目物。観世信光作。現在物。五流現行。作り山伏となって奥州へ下る義経主従の,安宅関における危難を描く。義経を子方にするのはシテの弁慶をクローズアップする能の常套(じょうとう)手段。ワキの富樫(とがし)も劇的に対立する。三味線音楽の題材として好まれ,長唄や義太夫節・一中節などで〈安宅物〉と総称される一連の楽曲群が作られた。最も有名なのは,歌舞伎《勧進帳》の伴奏音楽として作られた長唄作品であるが,能の《安宅》は,歌舞伎の《勧進帳》に比べ,力と力の対決という面が強調される。
→関連項目現在能|判官物
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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安宅
あたか
能の曲名。四番目物 (→雑物 ) 。作者は観世小次郎信光説もあるが,未詳。義経追捕のために設けられた安宅の新関を富樫 (ワキ) が守護する。弁慶 (シテ) は義経 (子方) を強力 (ごうりき) 姿につくり,作り山伏の一行となって新関にかかると,富樫はこれを怪しみとどめる。一同は覚悟を決め,山伏の勤行を始めるが,勧進帳の聴聞を求められ,弁慶が高らかに読上げる。疑いも晴れ,関を通ろうとするとき,強力姿の義経を見出され,供の郎党 (ツレ) は勇むが,弁慶の知略で事なきを得る。安堵する主従のもとへ,先度の非礼をわびる富樫から酒が届けられ,弁慶は一差し舞って喜ぶ (男舞) 。劇的構成をもつ現在物で,のち歌舞伎に入って『勧進帳』となった。
安宅
あたか
石川県南西部,小松市の地区,旧町名。梯 (かけはし) 川の河口にある。かつて北前船による商業活動で栄えたが,北陸本線開通後は漁港としてイカ,ブリを水揚げする。小松市街への通勤者が増加している。歌舞伎の『勧進帳』で知られる安宅の関跡がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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安宅
(通称)
あたか
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 元の外題
- 星合十二段 など
- 初演
- 元禄15.2(江戸・中村座)
安宅
あたか
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 初演
- 延宝5.10(江戸・大和守邸)
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
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普及版 字通
「安宅」の読み・字形・画数・意味
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の安宅の言及
【厠神】より
…【砂山 稔】
[朝鮮]
朝鮮では,家庭内の守護神であるソンジュsŏngjuの配下にあって刑罰を執り行う気難しい若い女性の神と考えられている。便所の天井に布片や紙片を貼り付けたり吊るしたりする以外には神体を表示するものはなく,特定の祭日もないが,家庭の平安を祈る〈安宅〉の祭りには厠にも餅を供えたりする。またふだん便所を使用する際には,厠神の気を損なわないように咳払いをして告げてから入る習わしがある。…
【勧進帳】より
…読物は普通の曲にない特殊な曲節に作曲されているが,現在は伝承が絶えている。(2)能《[安宅](あたか)》の部分の名。関守の疑いを解くため,弁慶(シテ)が即席に案文しながら偽りの勧進帳を読み上げる部分。…
【問答】より
…仏教では〈[論義]〉と称し,問者と答者(たつしや)の間には一定の様式があり,その形式は能の謡にも影響を与えている。また修験(しゆげん)の徒の問答も芸能に多くとり入れられ,能の《安宅(あたか)》では,現在も金剛流の特殊演出として〈山伏問答〉(〈問答之習〉)がある。彼らが伝承した修験系の神楽(かぐら)の能には,問答が主体となる曲もある。…
※「安宅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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