羽後松山城(読み)うごまつやまじょう

日本の城がわかる事典 「羽後松山城」の解説

うごまつやまじょう【羽後松山城】

山形県酒田市(旧松山町)にあった江戸時代の平城(ひらじろ)。本丸を中心に輪郭式に二の丸、梯郭式に三の丸が配置されている。庄内地方は関ヶ原の戦いの後、最上領となったが、最上氏は御家騒動から1622年(元和8)に改易となり、譜代酒井忠勝が庄内藩主となり鶴ヶ岡城(鶴岡市)を居城とした。忠勝の死後、遺言により三男忠恒(ただつね)に酒田一帯の2万石が分知され、庄内藩の支藩として出羽松山藩が成立した。これにともなって1662年(寛文2)に忠恒が開いた中山陣屋が羽後松山城の前身である。また、その2年後に中山の地名を松山に改称し、1779年(安永8)には、若年寄などの幕府要職を長年つとめた藩主で第3代城主の酒井忠休(ただよし)は5000石の加増と城の築城を許され、1781年(天明1)に築城を開始したのが松山城(羽後松山城)である。しかし、着工から7年後に、忠休の死と藩財政の悪化により築城は取りやめられ、未完の城となった。戊辰戦争で宗藩(鶴ヶ岡藩)とともに幕府方に与した松山藩は1868年(明治1)9月に新政府に城を開城し、その後城は取り壊しとなった。城跡は現在、松山歴史公園となっている。大手門は1790年(寛政2)の落雷により焼失したが、酒田の豪商の本間重利の寄進により1782年(天明2)に再建された。この大手門が現存し、山形県内で唯一の江戸時代の城郭建築となっている。このほか本丸土塁跡や外堀の一部(十三間堀)などが現存し、歴史公園として保存・整備されている。近隣には武家屋敷なども残っている。JR羽越本線酒田駅からバスで松山学校前下車。◇松嶺(まつみね)城とも呼ばれる。ただし、松嶺城は明治以降の呼称

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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