村上城下(読み)むらかみじようか

日本歴史地名大系 「村上城下」の解説

村上城下
むらかみじようか

[現在地名]村上市村上・もと町・二之にの町・三之さんの町・しん町・堀片ほりかた杉原すぎわら羽黒口はぐろぐち羽黒はぐろ町・長井ながい町・かん町・おお町・町・庄内しようない町・久保多くぼた町・かた町・上片かみかた町・加賀かが町・てら町・大工だいく町・細工さいく町・安良あら町・しお町・いずみ町・小国おぐに町・鍛冶かじ町・さかな町・石原いしわら飯野いいの一―三丁目・飯野桜いいのさくらおか飯野西いいのにし

村上市のほぼ中央、北方を三面みおもて川とその支流門前もんぜん川、南を山居さんきよ山を中心とする丘陵に囲まれた城下町。

〔城下町の成立〕

村上城下が姿を現すのは文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図である。この絵図によれば臥牛がぎゆう山には城郭、山麓には柵や冠木門に固められた政庁らしき建築物が描かれる。城下の「村上町」は臥牛山西方に道沿いに南北に並ぶ家並と小路が描かれ、二五〇軒を数える。町の周囲は柵と垣に囲まれ、各入口には門が設けられている。南方「しり引村」境には社がある。北方は森となっており、そこから三面川河畔にかけて坂を下る。町の東口には猿沢さるさわ村・塩野町しおのまち(現岩船郡朝日村)を経て庄内境に至る道と、中町なかまち(現上片町付近)付近を経て門前川を渡り、流域の村々や三面川流域の村落に至る道がみえる。一方西口には、直接瀬波せなみ村に至る道や、七湊ななみなと(現岩船郡神林村)を経て岩船いわふね町に至る道、松山まつやま村を経て瀬波村に至る三筋があるが、いずれも尻引しりひき(現羽黒町付近)付近で合致し城下に入る。さらにまた、南口には山居山丘陵の南麓に抜け、色部氏領の助淵すけぶち村や高御堂たかみどう(現神林村)に至る道と山屋やまや(現同上)方面に至る二筋の道が描かれる。職業集団は鍛冶職が最も古いようである。現在の鍛冶町川村七郎治家の伝えによれば、川村氏の初代は永禄七年(一五六四)に本庄繁長により出羽庄内から移住させられた家といい、以来屋号を鶴ヵ岡屋と称し、歴代藩主のもとで鍛冶職元締として幕末に至った。また同町の片野源四郎家は元亀年間(一五七〇―七三)に現在の朝日あさひ中原なかはらから来住した鍛冶職であると伝え、江戸時代初期には肝煎役を勤めた。

〔近世城下の成立〕

慶長三年(一五九八)村上氏が入部すると、城郭の普請とともに新たに武家地を整備拡大した。建立された寺院が八ヵ寺にも及び、町地の整備も行われたと考えられる。城下の西面、追手門・飯野門の内側二ノ丸・三ノ丸(現二之町・三之町)には家老屋敷をはじめ上級武士の邸宅が軒をならべ、城山の北東面の新町や搦手口にあたる東麓、あるいは南西方面の飯野や羽黒口周辺にはそれぞれ中下級武士の屋敷を配した。また足軽屋敷は城下の出入口にあたる北東方面の外堀の内側(現杉原)小国町や鍛冶町家並の北方、三面川との間に配された(「村上城図」国立公文書館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の村上城下の言及

【村上[市]】より

…瀬波海岸には瀬波温泉がある。【佐藤 裕治】
[村上城下]
 越後国の城下町。平安時代の小泉荘の本荘の地で,鎌倉初期に秩父行長が地頭として入封した。…

※「村上城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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