日本大百科全書(ニッポニカ) 「胡縄」の意味・わかりやすい解説
胡縄
こじょう / フーション
(1918―2000)
中国の歴史家、哲学者。江蘇(こうそ/チヤンスー)省蘇州(そしゅう/スーチョウ)出身。北京(ペキン)大学哲学科に学んだのち、日中戦争中から雑誌編集者として武漢(ぶかん/ウーハン)・重慶(じゅうけい/チョンチン)・香港(ホンコン)などで活躍し、その間1938年に中国共産党に入党した。解放戦争中の1948年に『帝国主義と中国政治』(邦訳名『中国近代史 1840―1924』)を出版した。本書は范文瀾(はんぶんらん/ファンウェンラン)の『中国近代史』(1947)と並び、広く読まれて版を重ねた歴史書である。中華人民共和国成立後は政務院出版総署、中国共産党中央宣伝部、同中央政治研究室、紅旗雑誌社などで要職を兼任し、胡適(こてき/フーシー)批判、胡風(こふう/フーフォン)批判などに重要な役割を果たした。しかし、文化大革命の時期には迫害を受け、研究や執筆活動を停止せざるをえなかった。1973年ごろから研究・執筆活動を再開し、中国共産党中央委員(1982~1987)、全国人民代表大会常務委員会委員(1975~1983)などを務め、1982年以降は中国共産党中央党史研究室主任、中国社会科学院院長(1985~1998)、全国人民政治協商会議副主席、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)史研究室主任などの要職にあった。著作も多く、前記のほかに、『新哲学の人生観』(1937)、『弁証法的唯物論入門』(1938)、『思想方法』(1940)、『理性と自由』(1946)、『二千年間』(同)、『いかにして思想方法に精通するか』(1948)、『棗下論叢(そうかろんそう)』(1962)、『鴉片(あへん)戦争から五・四運動まで』(1982)、『歴史と現実』(1988)、『胡縄文集』(1990)、および『胡縄全集』(1998)などがある。1981年(昭和56)学会出席のために来日。次いで1986年には日中文化交流協会の招きで再び来日した。2000年11月上海(シャンハイ)で病没。
[伊東昭雄 2016年3月18日]
『小野信爾・狭間直樹・藤田敬一訳『中国近代史 1840―1924』(1974・平凡社)』