改訂新版 世界大百科事典 「シャンハイ」の意味・わかりやすい解説
シャンハイ (上海)
Shàng hǎi
中国,中央直轄市の一つ。長江(揚子江)デルタの先端,黄浦江を少しさかのぼった左岸に中心がある。
位置と形勢
市域は,北は崇明島を含み,南は杭州湾口に達し,西は太湖周辺の湖沼地帯で江蘇省,浙江省と接する。面積6340.5km2。黄浦区,南市区,浦東新区ほか計14の区(面積2057km2)と,南滙,奉賢,松江,金山,青浦,崇明の6県(面積4283.5km2)を管轄する。人口1625万(2002)。太湖平原の一部をなし,ほとんど平坦な沖積平野で,縦横に水路(クリーク)の走る水郷景観を呈するが,微地形的にみると古い海岸線や旧河道沿いに微高地があり,特に市の西方を北西~南東に走る砂丘列(崗身)は,沖積世海進期の海岸線を示すもので規模が大きい。土地利用,集落立地,水路の走り方も,これらの微地形に左右されるところが大きい。上海はこのデルタの成育とともに発展した都市で,地域中心として歴史に姿を現すのは宋代になってからである。地域の開発が,内陸の中心として,また内陸諸地域と結びついているだけでなく,外洋を通じて別の世界との結びつきによって引き起こされるようになると,長江の河口にあって,長江,大運河を通じて華中・華北の主要部と,外洋を通じて南海,西洋と結びつくこの位置は,新しい中心となるのに最適で,中国南部のみならず,中国全体の経済的中心となった。
居住の拡大
集落の形成
この地域の開発は古く,沖積平野の安定と同時に居住がすすんだと考えられる。《禹貢》にみえる〈三江既入,震沢底定〉(三江)はこの状態を示したという説もある。崗身より西には,金山県査山,上海県馬橋,青浦県崧沢(すうたく)など,多くの新石器時代遺跡があり,文化類型に応じて,馬家浜文化,崧沢文化,良渚文化などと呼ばれている。これらの文化は江蘇南部より浙江北部にかけて一つのまとまりをもって分布しており,同時期に江蘇北部より山東にかけて発達していた青蓮岡文化,大汶口文化とは,近似しながらも性格を異にしている。その後,印紋土器がみられるようになると,中原の影響を受けた青銅器も発見されている。この地域では馬家浜文化の時代(前4000年前後)から水田農耕がおこなわれ,海岸に近いため漁労,製塩も盛んであった。
春秋戦国時代には呉の東辺にあたり,のち楚の勢力下に入り,春申君(黄歇)の封土として灌漑がすすめられたという。上海の別称申もここに起因する。またこのころは今の黄浦江より西に,今の呉淞江(蘇州河)に沿ってらっぱ状の入江が深く入りこんでおり,滬瀆(ことく)と呼ばれていた。滬とは漁民の用いる木製の漁具の一つで,これも上海の別称となった。秦代には会稽郡海塩県が市の南部に置かれ,漢代には北部に婁(ろう)県が置かれ,デルタ開発の拠点となった。県は安定した微高地の上に設けられたが,崗身以東の低湿地でも,条件のよいところを選んで居住が進んでいったと考えられる。南北朝時代には,長江中上流の開発によって下流に運搬される土砂が増え,デルタ自身が拡大伸長すると同時に,江南一帯の人口増加に応じてデルタの農業開発がすすみ,太湖平原ではしだいに充実した都市網が形成されていった。唐代になると大運河の開通によって,全国経済における太湖平原のもつ重要性はいっそう高まり,低湿地においても圩田(うでん),囲田のような技法を用いて田地を拡大し,また海岸には堤防(海塘)を築いて,耕地・集落の安定をはかった。水利技術も大いに進歩し,水利書や地誌も盛んにつくられ,土地開発への関心が高まった。751年(天宝10)には,新しく華亭県(現,松江県)が設けられ,デルタ先端部の中心都市となるが,このころには現在の市街地の大部分は,ほぼ陸化が完了していた。このような集落居住の拡大は,各時代の遺跡分布の前進で明らかであるが,宋代にはほとんど現在の海岸線に近くまで居住が進出していた。また長江河口には中州の形成がすすみ,崇明島の原型ができていた。
青竜鎮
唐代から発達してきた東南海岸との交易船は,長江下流の都市へも来航していたが,滬瀆の入江の奥にあった青竜鎮は,華亭県の外港として唐末より繁栄し,北宋には海運の管理機関である市舶提挙司も設けられ,〈小杭州〉と呼ばれるほどであったという。しかしデルタ全体が上流からの土砂と,海潮の逆流により土砂が堆積して水深が浅くなりだし,南宋時代には青竜鎮付近での船舶の航行が困難になったため,滬瀆の下流,長江口に近い上海が,新しい基地となった。上海には青竜鎮と同じく市舶司が置かれ,華亭県の外港としてのみならず,デルタ先端の中心地として独立した地位を占めてゆき,県下にある他の中心地よりも高い機能をもつようになった。経済的発展とともに人口も増加し,寺院・道観のような文化施設も建てられ,静安寺,竜華寺などには宋代以来の遺物がある。同じころ北部には嘉定県が設けられ,崇明島にも塩場や州が置かれるなど,デルタ全体の開発がすすめられた。
上海県
このような地域の充実を背景に,元代に入ってまもない1292年(至元29)上海は華亭県から独立して県となり,華亭県にはより上位の行政単位である松江府が置かれて上海県もそれに属した。これまでの実態が形式的にも認められたものである。さらに南海貿易の副産物として綿花の栽培と紡績技術が伝わり,綿紡績工業が松江を中心にして発達した。これは上海にも広まり,綿花はデルタの最も有力な経済作物となり,この経済力を背景に明代以降の江南は歴史上最高の繁栄期を迎えた。その中心は蘇州であったが,華亭も独特の文化をもち,上海もそれに次いでいた。
当初上海には県の城壁がなく,明中期には倭寇の侵入を受けて荒廃し,人口も半減していた。そこで1553年(嘉靖32)城壁と周濠が設けられて県城としての景観を整えた。以後,人口は再び増加しはじめ,1573年(万暦1)には西部が割かれて青浦県ができ,清の雍正年間(1723-35)には,宝山,南匯,金山,奉賢の諸県も成立し,さらに下位の市鎮も発達して,現在の上海市域の原型となる稠密な中心集落網が完成した。清代になり1684年(康熙23),明中期より禁止されていた外国との通商が認められ,その翌年には江海(上海)・浙海(寧波)・閩(びん)海(泉州)・粤(えつ)海(広州)の4税関が設置されたが,広州以外は特に発展しないまま1757年(乾隆22),再び海外通商は広州にのみ限られてしまった。しかし江海関の設置は国内通運における上海の地位を上昇させ,江南の商業の一中心となっていった。19世紀に入り,広州以外の貿易港を北に求めるイギリス商社は,東南沿岸の各港を調査し,上海を特に有望な都市として認めている。
国際都市への発展
開港と租界
アヘン戦争後の南京条約(1842)で,五つの港湾都市の開港が決められたが,広州,厦門(アモイ),福州,寧波(ニンポー)とともに上海が選ばれたのは以上のような基礎があったためである。翌年,開港の実施とともに通商に従事する外国人の居住が始まり,まずイギリスが1845年(道光25)に土地章程を取り結んで租界を開設,翌年には租界の四至(領域)が確定され,県城の北の低湿地を租借して居住区を設定した。県城に比べて条件の悪い土地であったが,土木工事が施され,西洋風の街路計画のもとに洋館が建てられた。次いで1849年にはフランスが,黄埔条約(1844)によってイギリス租界と県城の間に租界を設定し,アメリカも望厦条約(1844)にもとづいて1848年より,呉淞江の北岸に居住地を設定したが,これは中国側との正式な約定によるものではなかった。その後,イギリスの主導のもとで3国の統合がはかられ,1854年(咸豊4)には一時統合がなったが,独立行政を主張するフランスは1862年(同治1)に単独で自治都市を宣言し,3国の統合は破れた。しかしアメリカ租界とイギリス租界はその翌年合併し,1899年(光緒25),租界が大きく拡張されたときより正式に公共租界The International Settlement of Shanghaiと称した。
租界と中国側の間では土地章程が結ばれ,租界における憲法とでもいうべきものとなった。土地章程は数回にわたり改訂され,また租界自身もどんどん拡張され,租界を越えても越界道路区と称する事実上の租界延長をも行った。当初のイギリス租界,フランス租界は,おのおの0.56km2,0.66km2にすぎなかったが,最も拡大したときにはおのおの22.60km2,10.22km2に達した。日本も1896年の日清通商航海条約で,上海をはじめ中国各地に租界設定の権利を得,天津や漢口には実現させたが,上海では共同租界の拡張の中に含められ,独立した日本租界は実現しなかった。しかし呉淞江北岸(虹口(ホンキユウ))を中心に居住がすすむと,日本人は上海で最も多い外国人となった。租界はこれまでの中国の伝統的都市とは異なり,西洋的都市計画にもとづき,城壁で囲まれた旧上海県城内(現在の南市)とは対照的な景観を呈した。民国に入るとこの城壁も撤去され,租界が県城を呑み込んだようになった。租界には教会,公園,競馬場などが,本国にならって設置され,黄浦江岸(バンド)に沿った部分には海関,英国領事館,銀行,ホテルなどが建ち並び,国際都市上海の象徴的景観となった。
外国資本の進出
1854年(咸豊4)にはイギリス,フランス,アメリカの3国が領事館を置いていただけであったが,公共租界が成立してからは領事あるいはそれに代わるものを派遣する国が増え,20世紀初頭には上記3国のほか,スペイン,ドイツ,イタリア,ロシア,日本など14ヵ国の領事館があった。これらに先んじて到来したのは商社員で,開港後ただちに活動を始めたのは,すでに広州で中国との交易に従事していたジャーディン・マセソン(怡和洋行),デント(宝順洋行),ギブ・リビングストン(仁記洋行),サッスーン(沙遜洋行),ラッセル(旗昌洋行)などのイギリス,アメリカの商社であった。1847年(道光27)ごろには早くも39の洋行があり,20年後には300,1903年(光緒29)には600余りという急増ぶりであった。
彼等の当初の目的は華北・華中の大消費地に対し,直接アヘンの販路を開くとともに,絹,茶を生産地より買い付けることにあった。茶の貿易だけはしばらく広州のほうが上回っていたが,太平天国の乱がおこるとともに広州の交易は不可能となり,すべての面で中国第一の国際貿易港となった。そして商業活動の活発化とともに金融資本が進出し,1849年にすでにオリエンタル・バンキング・コーポレーション(東方銀行・麗如銀行)が設けられたのをはじめ,1865年(同治4)にはのちに上海で最大の銀行となるホンコン・アンド・シャンハイ・バンキング・コーポレーション(匯豊銀行)が設けられた。これらは先の各商社と結びついてできたもので,さらに航運港湾業,不動産業,鉄道業,紡績業,木材業等,多様な事業に投資して関連企業群をなし,巨大な金融資本となって中国経済に大きな力をふるった。
日本の進出
イギリスに次いで資本投資の多かったのはアメリカ,ドイツで,フランスは広大な租界をもちながら経済的には弱体であった。これに対して日本の江戸幕府は,1862年(文久2)太平天国軍と清朝軍・欧米連合軍の戦いが続いていた上海へ,高杉晋作,中牟田倉之助,五代才助らを乗せた千歳丸を派遣し,上海の実情や貿易の可能性を調査させた。その後明治維新を迎えたが当時の未熟な資本力では中国大陸への進出は無理であった。当時の日本にとって,イギリス,フランスの租界となり,自国の統制外となっている上海の姿は,その轍を踏まぬようにするべき反面教師であった。しかし富国強兵策のもとで,朝鮮,台湾,満州へとしだいに帝国主義的侵略の意図をあらわした日本は,清末の混乱にある中国本土に対しても欧米に並んで南北両方向より進出を試み,上海はその南方からの進入口となった。1895年,日清戦争後の下関条約において,製造業の自由開業と水運における利権を得て20世紀初頭からは上海に続々と日本の紡績工場(在華紡)が進出し,やがて第1次大戦後に至ると地元の工場をもしのぐ勢力をもつようになる。一方,金融資本も,1892年(光緒18)横浜正金銀行の上海分行が設けられ,日清・日露戦争以後,日本の資本進出の中枢として,欧米の銀行に伍して発展した。1911年には台湾銀行の分行も設けられ,住友,三井,三菱なども続き,上海で最も数の多いのは日本の銀行であるほどになった。
租界と中国人
当初結ばれた土地章程では,租界には外国人の居住のみ認める方針であったが,1853年(咸豊3)からの太平天国の乱と,上海を舞台にした小刀会という秘密結社の乱により,居住地を失った中国人が隣接する県城から,江蘇・浙江の各地から大量に流入し,乱後に改訂された土地章程では,むしろ中国人の居住を認め,そのもたらす財貨と消費力を都市発展のために利用しようと考えた。租界設定の当初はせいぜい数十人の外国人が居住するのみであったが,咸豊の戦乱以後,租界人口が急増し,1865年(同治4)には,公共租界9万3000人,フランス租界5万6000人を数え,その中でも外国人はわずか3000人にも満たず,残りは中国人であった。この傾向はいっそう強まり,清末1910年(宣統2)には,上海全人口(128万9000)のうち,公共租界人口が48万8000を占め,そのうち41万3000が中国人であった。ちなみにこの時点の租界居住の外国人はイギリス人が4800人で1位,2位は日本人の3400人で,以下は少数であった。また中国人のうち43.6%が江蘇人,40.8%が浙江人,9.5%が広東人,そのほかはきわめて少数であった。しかしいかに中国人の人口が多くても,租界の支配権は西洋人にあり,部分的には中国人の参加が認められてはいるが,最高行政機関である市参事会や,行政執行・警察機関である工部局など主要な機関での主導権は西洋人,特にイギリス人であった。
買辦と民族資本家
上海に設立された外国の商社や銀行には,広州のときから買弁と呼ばれる中国人社員がいて実務をとりしきっていた。彼らは上海での新しい活動の中で勢力を伸ばして富を蓄積し,やがて唐景星,徐潤,祝大椿,呉少卿などのように産業資本家となり,また中国商人の側にも,葉澄衷,栄宗敬などのように小資本から身をおこして産業資本家となるものも現れた。これらは当初は広州以来の関係から広東出身者が多かったが,しだいに地元の江蘇・浙江出身者の勢力が強くなり,特に浙江寧波の出身者が多く,彼らはのちに浙江財閥と呼ばれる強大な資本力をもつようになった。さらに曾国藩,李鴻章,左宗棠らの洋務派官僚は,民族資本家と結んで産業の近代化をはかり,上海に江南製造局,招商局,上海織布局,電報局などを設けた。特に江南製造局には繙訳館がおかれ,科学技術についての外国書を翻訳させて普及に努めた。工業の面では,安価な労働力を周辺の農村にかかえ,確実な消費市場を国内にもつ繊維工業が最も発達し,その他食品工業,タバコ工業,造船工業などが発達した。上海にはこうしてさまざまな資本が入り乱れて,中外合弁や官督商弁というような形をとりながら産業が発達し,中国第一の近代的産業都市となり,工場労働者という,これまでにはみられなかった新しい社会階層を生み出した。
革命と上海
矛盾のるつぼ
しかし中国全体の経済の自立的発展からみれば,このような植民地的工業化は問題が多く,矛盾をはらみながらの成長であった。文化的にも伝統的中国文化と,新しい西洋文化との矛盾があり,上海を舞台に両者は激しく衝突した。租界で生み出される新しいものは,一方で嫌悪され,一方で歓迎された。清朝の権力の及ばぬ租界は,反清民族運動にとって好適な活動の場で,新しく発達した新聞・雑誌という手段でさまざまな言論が自由に発表された。1903年,上海愛国学社の機関誌である《蘇報》上で章炳麟(太炎)や鄒容(すうよう)は,反清民族革命論を説き,〈蘇報案(事件)〉をひきおこしたが,すでに清朝にはこれを処罰する力はなかった。辛亥革命前の上海は,商工会の民族資本家を中心に,一種の自治都市ともいえる実力を保有していた。11年の辛亥革命においても,武昌起義につづいて上海の革命軍は江南製造局を占拠し,杭州,蘇州をもおとし,年末には南京に進軍して民国政府樹立をたすけて大きな功績があった。
国民革命の動きとともに,民族資本家の側の産業近代化・脱植民地化の運動は上海総商会を中心に盛り上がり,おりから第1次大戦後の日本の二十一ヵ条要求に反対してはじまった19年の五・四運動の高揚の中で,上海では民族資本家,労働者,学生の諸階層が一体となって三罷闘争(罷工・罷課・罷市--工人・学生・商人のストライキ)を市民運動として展開し(六・三運動),思想運動,学生・知識人の政治運動に終わった北京の運動と対照をなした。こののちしばらく民族産業の黄金時代を迎えるが,やがて日本の資本進出が急激に始まり,他方では農村から大量に流入した不安定な労働者の存在があって,都市内部の諸階層間の矛盾は,外国人・民族資本家,軍閥,官僚,知識人,労働者などの間で複雑な様相を呈した。21年には,中国共産党が上海で成立していたが,25年には反帝国主義運動を指導して五・三〇運動にみられるような弾圧を受け,その活動はいっそう先鋭になっていった。その中で民族資本家を背景にもつ蔣介石は27年上海で共産党に対するクーデタを行い,ここに国共合作は終わり,以後解放に至るまで,上海は国内国外の諸勢力の暗躍する舞台となるのである。しかし中国革命の発展において上海の果たした役割は,きわめて大きい。未熟ではあったが労働者・市民の力量や,民族資本家の果たした役割などを正当に評価しなければ,対置される農村革命の意義も不明確となろう。
大都市域の形成
日中戦争の間,上海は第1次(1932)・第2次上海事変(1937)によって上海の市街地は戦火にさらされたが,大きく破壊されることもなく,解放に至るまで多数の人口を擁し,経済活動も続けられていた。1927年には特別市として省から独立し,郊外区も含めて630km2の面積をもち,解放直前には540万(1948)の人口があった。49年5月に解放されると,新中国建設の中心として,従来の民族資本による施設も利用し,重工業都市化がはかられた。同時に工業都市を支える農業地域も含め,総合的地域計画をすすめるべく58年に,周囲の宝山,嘉定,松江等の10県も合併,現在の大上海市が出現した。現在は14区6県,人口は1304万(1996)まで増え,うち区部は961万,県部は343万。最も人口の多い区は,93年に新設された浦東新区(151万)で,次いで北郊の新市街地を含む楊浦区(107万),西北郊で多くの新村をかかえる普陀区(83万)とつづく。都心部の黄浦区(27万)や南市区(47万)は,相対的に人口の増加がとまっており,人口のドーナツ化現象がみられる。全市の人口密度は2057人/km2であるが,市区だけなら4672人/km2,最高の過密区の南市区では6万0049/km2にものぼる過密都市である。
上海は解放以前においてはまぎれもない全中国の経済中心であった。しかし解放後の社会主義計画経済のなかでは,民族資本によって成長してきた工業は,資本主義に汚染されたものとして忌避され,東北地区や内蒙古,湖北など,内陸に重工業の中心は移された。この時期,上海の熟練技術者が多く内陸の工業開発に移転させられたといわれる。そのころ上海は伝統的な工業力を生かした軽工業生産で貢献していた。しかし日米関係の改善,市場経済の導入と,内外の情勢の変化とともに上海の位置づけも大きく変化してきた。とくに沿海地区における開放経済の進展とともに,内陸に配置された非能率な重工業基地にかわって,沿海の工業基地,とりわけ南北中国を結ぶ位置にあり,解放以前からの工業都市としての伝統,蓄積をもつ上海が,新しい経済戦略の中核にすえられることは当然であったろう。現在,上海の経済力は国内総生産額からみれば,江蘇,山東,広東などには及ばないものの,北京の1.5倍,河北,河南,浙江などの大省に匹敵する生産額をもっている。また住民1人当りの生産額,収入でみても,他の省市をはるかにひきはなして全国1位である。1997年,香港が返還されてより後は,香港がもっていたアジアの経済中心としての機能が,解放前と同じように上海に戻ってくるという観測もあるが,これからの上海は単に中国一国の経済中心ではなく,アジアの,あるいは世界の一大中心都市となることは疑いない。とくに商業中心,金融中心としての役割については,すでに実績をあげつつあるといえよう。
文化の面でも,中国の新しいものは上海から始まるといわれ,つねに若々しい力をもっている。そして中国共産党の創立,文化大革命の発動などから知られるように,経済力・文化力に基づいた独特の政治力もある。江沢民,朱鎔基など上海での経験を生かした幹部が,現在の中国の改革路線をリードしていることはよく知られている。また市内には復旦大学,上海交通大学などの中国を代表する高等教育施設があり,新しい設備を備えた上海博物館も新装なった。名所旧跡としては江南の名園として知られる予園のほか静安寺,竜華寺などがある。また世界的にも貴重になった20年代,30年代の西洋風建築も歴史的文化財である。
都市改造と新区の設置
新しい体制のもとで新しい役割を果たそうとする上海にとって,最大の問題は現代都市としての基盤整備の遅れであった。都心部では1920年代~30年代のビルや住宅がそのまま利用されており,電気,上下水,ガス等の公共設備の不備,狭い道路に年々増加する乗用車の渋滞などは,工業生産の拡大による環境汚染とあいまって深刻な都市問題を生み出していた。それに対する対策として打ち出されたのが,都心部の大規模な再開発と,郊外に新しい市区をつくり,経済発展に求められる土地を作り出そうという政策であった。上海の市街地は,ほとんとが黄浦江の左岸(西岸)にあり,右岸(東岸)には戦前から一部の工場があるくらいで,海岸との間の広大な土地はほとんど農地として使われているだけであった。この土地を1990年,中国政府は開発して開放地区にすると発表し,93年に浦東新区を設置した。新区の面積は522km2,かつての旧市街地をあわせたよりもはるかに広い。新区の中には多数の工業区,輸出加工区,ハイテク区,金融貿易区,外商保税区,商業区,旅游区など,目的に応じた街区が設定されて各地で建設が進められ,これまでの上海とはまったく違う景観を実現している。新区へ進出を計画している企業は,国内外にわたり,その総投資額は93年で160億元にのぼるという。これと同時に進められているのが,旧市街地の再開発で,都市高速道路や地下鉄など交通設備の建設,老朽化住宅地域の整理と高層ビル化,都心公園(博物館,市役所,人民広場,地下ショッピングセンター等を含む)の整備などによって,上海は内部からも変貌を遂げようとしている。
上海の文化と日本人
上海は東アジアで唯一の国際都市であり,統制する国家権力をもたないという意味で自由都市であった。中国にあって中国ではない〈もう一つの中国〉であった。中国経済の中心,また国際金融の中心としての繁栄は,巨大な消費力をもち,歓楽のあふれる〈不夜城〉であった。文化・学芸においても,蘇州,杭州のすぐれた伝統文化をみずからの中に吸収し,江南文化の継承者となる一方,西洋より輸入されるものをとり入れて,新しい近代文化の創造者となった。特に全国で最も発達した印刷出版業に支えられ,商務印書館などの出版社が,文化の大衆化をすすめた。辛亥革命以前に革命思想の普及に努めた愛国学社や南社の運動につづき,国民革命が文化の面でもすすめられる中で〈新文化運動〉がおこったが,北京での運動が挫折したあとは,上海を中心に続けられた。魯迅も北京を去ったのちは,上海に居を構えて活動した。またこれまで一部の読書人に限られてきた古典の,安価な普及は伝統文化の新しい展開に有用であった。しかし一方では,物質主義・西欧至上主義に走る退廃的な文化も生み出された。
日清戦争以後,日本人の一般的な中国観は,日本に比べて近代化の遅れた後進国とみなすものであった。しかし中国を単に経済進出の対象とせず,またすぐれた伝統文化の遺産だけに関心をもつのでもなく,ともに近代化に向かう苦悩を共有するものとして,中国の新しい動きに注目する日本人もあった。竹内好,武田泰淳らは,魯迅の紹介などを通じて日中の真の相互理解をはかろうとした。また上海在住の日本人の中にも,内山完造のように民間レベルで誠実な交流を実行したものもあった。東亜同文書院の存在も,設立の意図とは別に,現実の中国の認識を深めた点では忘れることはできない。〈満洲は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところ〉であるのに対し,上海は〈ひとりものが人前から姿を消して,一年二年ほとぼりをさましにゆくところ〉(金子光晴《どくろ杯》)といわれるように,満州が開拓の対象であったのに対し,上海は混沌とした雑踏の中で,旧慣習の束縛から離れて自由に暮らせるところであった。そしてそれは若い文学者に新鮮な驚きと感動を呼びおこし,金子のほかに,武田の《上海の蛍》,横光利一《上海》,堀田善衛《上海にて》などを生みだした。これらの文化的産物は,〈大東亜共栄圏〉の展開の前に抗すべくもなかったが,戦後の日本の中国理解に大きな影響を与えたばかりか,日本文化,特に思想・文学の世界で一つの広がりを与えたことは見のがせない。
執筆者:秋山 元秀
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報