中国の学者。「こせき」とも読む。安徽(あんき/アンホイ)省績渓県の人。字(あざな)は適之(てきし)、幼名は嗣(しもん)。1910年アメリカに留学、コーネル大学からコロンビア大学へ移り、デューイのプラグマティズムの影響を受け、ヨーロッパの精神史における口語の役割を発見し、中国も言文一致であるべきことを主張し、『新青年』に「文学改良芻議(すうぎ)」を投稿して、文言(文語)文を独占していた文人階級に衝撃を与えた。同誌の主編者陳独秀(ちんどくしゅう/チェントゥーシウ)がこれを受けて「文学革命論」を同誌に発表し、伝統的文学観に対する「文学革命」の運動がおこった。帰国後は北京(ペキン)大学教授に迎えられ、新時代のホープと期待されたが、李大釗(りたいしょう/リターチャオ)との「主義と問題」論争でしだいに保守的改良主義者としての本質を現し、マルクス主義と対立して『努力週報』を創刊した。またプラグマティズムによる古典研究を提唱し「国故整理」を主張して実証的な古典研究の分野を開拓したが、1930年に『新月』、1931年に『独立評論』を発刊して「全面洋化」実現のため蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)政権に接近し、1938年には駐米大使として対日戦争のため努力した。1942年には行政院最高政治顧問、1946年北京大学長、1948年にアメリカへ亡命、1962年に台湾で病死した。自伝『四十自述』や『胡適文存』など多くの著書がある。
[尾上兼英 2016年3月18日]
現代中国の学者,思想家。字は適之(てきし)。〈こせき〉とも読まれる。安徽省績渓県出身で上海の生れ。少年期に厳復,梁啓超の著述,とくに《天演論》《新民説》に感激し,新思想の洗礼を受けた。1910年(宣統2),アメリカに留学,最初コーネル大学,ついでコロンビア大学に学び,デューイ哲学から深い影響を受け,《古代中国における論理学的方法の発展》(英文,1917,その漢訳《先秦名学史》を出版)で哲学博士を得た。1917年帰国し北京大学哲学科教授となる。この年発表された《文学改良芻議》は,文学革命の発火点となった。また,従来の儒学を正統とする価値観を脱して論理的思考の発達を考案した《中国哲学史大綱》(上巻,1919刊)を書いて学術界に強い衝撃を与えた。五・四新文化運動において,彼は陳独秀,李大釗(りたいしよう)とともに,その有力な指導者として尊敬されたが,運動がマルクス主義的傾向を強くするにともなって,それを批判し,〈問題を多く研究し,主義を論ずることを少なくせよ〉ととなえて改良的立場を鮮明にした。1931年,満州事変がおこると,週刊《独立評論》を創刊し,愛国と侵略非難の筆をふるい,民主立憲を主張した。
学術面では《戴東原の哲学》(1925)で,18世紀の戴震の哲学の中に,西欧近代の科学的精神と同質のものを指摘した。1938年,アメリカ大使に任ぜられ,一時は蔣介石に接近したものの,1949年新中国成立後はアメリカに亡命して,なお自由主義の立場を崩さず,雷震らの《自由中国》創刊に参加,58年台湾に帰り中央研究院院長となったが,なお蔣介石とは一線を画していた。彼の著述は《胡適文存》第1~4集,《胡適選集》13冊に収められている。
執筆者:坂出 祥伸
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1891~1962
中国民国時代の文学理論家,哲学者,教育家。安徽(あんき)省続渓の人。アメリカに留学してデューイのプラグマティズムに傾倒する。帰国後,若くして北京大学教授となり,白話(はくわ)運動を提唱,文学革命を主導した。五・四運動後は反共の立場になった。1938年駐米大使となり,アメリカの対日外交を左右した。46年中国に戻るが,49年アメリカに亡命,58年以後台湾に居住して中央研究院院長在職中に病死した。中華人民共和国でも80年代以降再評価がなされつつある。
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…1938年,アメリカ大使に任ぜられ,一時は蔣介石に接近したものの,1949年新中国成立後はアメリカに亡命して,なお自由主義の立場を崩さず,雷震らの《自由中国》創刊に参加,58年台湾に帰り中央研究院院長となったが,なお蔣介石とは一線を画していた。彼の著述は《胡適文存》第1~4集,《胡適選集》13冊に収められている。【坂出 祥伸】。…
…批判論文を採用するかどうかの手続問題から,馮雪峰(ふうせつぽう)らの《文芸報》編集部自己批判をも引きおこした。胡適の《紅楼夢考証》(新紅学)の系統を継ぐ兪平伯(ゆへいはく)は《紅楼夢研究》《紅楼夢簡論》などで,《紅楼夢》を色即是空を表す観念小説で,作者曹雪芹の嘆きの自伝とみなした。山東大学を卒業したばかりの李希凡,藍翎(らんれい)は,〈《紅楼夢簡論》およびその他について〉を書き,兪平伯はリアリズムの批判原則を離れ,明確な階級的観点を離れていると批判し,《紅楼夢》を当時の封建社会に対する反抗の書とし文学の分析に“人民性”を導入した。…
…前者は辛亥革命後の軍閥支配に抗して中国の出路をもとめていたインテリたちである。もっとも有名なのは,《新青年》に拠って新文化運動を展開した陳独秀,李大釗(りたいしよう),胡適,魯迅らのグループである。彼らは,民主と科学の旗をかかげ,中国の封建倫理の中核である孔子の教えを根底から否定しようとした(打倒孔家店)。…
…そうした風潮に対して,19年の五・四運動の前後から,中国固有の伝統思想や文化を学術的立場から新たに再検討し再評価しようとする運動が出現,それを国故整理運動という。国故整理の動きは,早くに清末の章炳麟を元祖とするが,より直接的には,17年にアメリカから帰国して北京大学教授となった26歳の胡適が書いた《中国哲学史大綱》(上巻,1919)を創始とし,およそ四つの分野からなる。第1は,胡適や梁啓超の《先秦政治思想史》に代表される先秦の諸子百家および仏教などについての思想史的研究。…
…【小川 環樹】
【文学革命から人民文学へ(20世紀)】
中国の近代文学は,1910年代末の文学革命によって幕を開けた。そのきっかけを作ったのは,胡適が17年1月に雑誌《新青年》に発表した〈文学改良芻議〉で,形骸化した文語文にかわって俗語・俗字を使用し,〈今日の文学〉をつくろうというその主張は,大きな衝撃を与えた。ついで,陳独秀が〈文学革命論〉を発表してこれに呼応し,〈国民文学〉〈写実文学〉〈社会文学〉を提唱するにおよんで,〈文学革命〉は時代の合言葉となった。…
…この雑誌はのちに中国共産党の機関誌となったが,当初は自由主義を唱え,封建的重圧からの人間解放,とくに儒教倫理と家族制度の打倒を目標としていた。これに17年1月,アメリカ留学中の胡適が〈文学改良芻議〉を寄稿した。彼は精神の自由な発展を望むなら,まず文学を古い文語体のもつ桎梏から解放し,自由な口語を駆使して新しい文学を創造すべきであると主張した。…
…しかし,文語の特殊な権威が王朝体制の〈礼楽〉秩序の根幹をなす〈文章〉観念に由来した以上,口語文が正統性をかちえるためには,王朝制自体の崩壊を前提とする文学言語の解放が必須であった。1917年,胡適の〈文学改良芻議〉に始まった文学革命における口語文学運動がそれを担った。これが狭義の〈白話文運動〉である。…
…中国で1917年,アメリカ留学中の胡適が《新青年》誌に寄せた論文〈文学改良芻議〉に端を発した白話(口語)文学運動。胡適論文は,文語表現が古人の模倣に終始し,対句や典故,常套語を濫用し形式主義に陥っているとして批判,いかなる時代もその時代独自の文学を創造すべきであり,俗字俗語をもまじえた言文一致の白話文学こそ今日の文学でなければならないと提唱し,その主張を8項目にまとめたものである。…
※「胡適」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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