興法寺村
こうぼうじむら
近衛家領宮田庄内の村名。現篠山市上板井・下板井の地名に興法寺があり、篠山盆地の北西、篠山川支流の宮田川の中流に位置したと思われる。興法寺は法道の創建と伝えるが、江戸時代に廃絶した。建武四年(一三三七)三月仁木頼章のもとで越前金ヶ崎城(現福井県敦賀市)攻撃に従った軍忠戦功により、同月一〇日久下時重は「宮田庄内興法寺村」を丹波国新屋庄などとともに宛行う足利尊氏袖判下文を得ている。明徳二年(一三九一)八月一〇日には足利義満御判御教書によって、宮田庄内興法寺村は丹波国栗作郷(現山南町)地頭職・領家職などやその他の承久(一二一九―二二)以来の知行地とともに久下重元に安堵されている。
興法寺村
こうぼうじむら
[現在地名]小矢部市興法寺
小矢部川左岸、清水村の南に位置。元和五年(一六一九)の家高新帳に「かうほうし」とみえ、役家数一三、本江組に属する。正保郷帳では高七三二石余、田方四五町六反余・畑方三町二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七八五石・免五ツ七歩、小物成は山役一三八匁・鮎川役六匁(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では、享保一四年(一七二九)から天保九年までの手上高一七石を加え、高七〇二石。所属組は棚田村に同じ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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