日本歴史地名大系 「船井庄」の解説
船井庄
ふないのしよう
現園部町を中心とする一帯にあった、主として北野社(現京都市上京区)領の荘園。建武三年(一三三六)足利尊氏により当荘地頭職が北野社に寄進された(北野神社文書)。
尊氏は同年八月一八日に、この船井庄得分を「天満宮本地供養法毎日一座」にあてるよう指示しているが、同日弟直義からも次のような条々が出されている(同文書)。
これによれば当荘の寄進は尊氏・直義が新田義貞の党類を討った戦勝記念のためであり、荘務は天満宮の別当や政所と無関係に永年師職としての守慶や禅陽にゆだねることとしている。
観応二年(一三五一)五月二八日にも、足利義詮袖判御教書が発せられ、北野社領船井庄が同社家助法眼守慶の支配にゆだねられている(同文書)。この頃、荘内の
祠官松梅院によって筆録された「北野社家日記」にも関係記事がみえるが、長享三年(一四八九)五月一五日条に引かれた文明一八年(一四八六)九月一六日付管領兼丹波守護細川政元書状が最も早い記事である(以下特記しない限り同日記による)。
これによれば北野社領船井庄は一一村からなり、この時、闕所地が細川勝元の寄進の奉書によって、新たに寄進されている。また守護方の代官小畠七郎に下知すべく、守護代上原神六元秀に下命があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報