船手組(読み)ふなてぐみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「船手組」の意味・わかりやすい解説

船手組
ふなてぐみ

江戸幕府の職制、水軍。制度の確立をみたのは1632年(寛永9)。5組をもって定数(当初、増減あり)とし、各組に頭(かしら)1人(若年寄支配、役高700石、布衣(ほい)、躑躅間詰(つつじのまづめ))、水主(かこ)同心30~40人以上、多いもの100人前後(役高20俵二人扶持(ぶち)、御目見(おめみえ)以下、御抱場(おかかえば))があった。平時幕府用船を保管したが、1640~42年の3年間、頭は、毎年2人ずつ交替して四国・九州の浦々の巡視、また1667年(寛文7)巡見使に加えられ、江戸より大坂に至る浦々の陸路、西海道および山陽道の国々の海辺の巡視にあたった。1862年(文久2)廃止。頭は勤仕並(きんじなみ)、同心は軍艦奉行(ぶぎょう)支配となった。ちなみに、向井(むかい)氏は代々船手頭を世襲し、その筆頭地位にあったが、船手組廃止ののちも軍艦奉行の指揮下にあって船手のことにあずかった。このほか大坂にも船手組はあり、1組をもって定数とし、頭1人(一時、2人あり、老中支配、持高、布衣、躑躅間詰)、与力(よりき)5あるいは6人(御目見以下、役高現米36石)、水主同心50人(役高現米7石一人扶持、御目見以下)があった。幕府の用船をはじめ諸商の廻船(かいせん)などを管轄してその貨物を検査し、小豆(しょうど)・塩飽(しあく)両島の代官をも兼任した。また船手は、海浜に面して領国をもつ諸藩にもあった。

[北原章男]

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改訂新版 世界大百科事典 「船手組」の意味・わかりやすい解説

船手組 (ふなてぐみ)

江戸幕府番方の職制。水軍。制度上確立したのは1632年(寛永9)である。定数は5組(ときに増減あり)で,各組に頭1人(若年寄支配,役高700石,布衣,躑躅間詰),水主(かこ)同心30~40人以上,多いもの80余人,ときに130人(役高20俵二人扶持,御目見以下,御抱場)があった。1862年(文久2)廃止となる。頭は勤仕並,同心は軍艦奉行支配となった。平時は官船を管理し,船手頭は毎年2人ずつ交替して,四国,九州の浦々の巡視にあたったこともある。ちなみに,向井氏は代々船手頭を世襲し,その筆頭の地位にあったが,船手組廃止ののちも軍艦奉行の指揮下にあって船手のことにあずかった。また船手組のたぐいは,海浜に面して領国をもつ諸藩にもあった。
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世界大百科事典(旧版)内の船手組の言及

【海賊衆】より

…中世末から近世のはじめにかけて九州,瀬戸内海などの海上交通の要衝に勢威をはった海辺の武士団を〈海賊〉と称し,海賊衆は守護大名や戦国大名と主従関係をもち,海上軍事力を構成した組織集団の水軍をいう。ほんらい海賊は権力に組みこまれることを好まない存在であったが,南北朝・室町時代の守護大名や守護を凌駕して台頭した戦国大名が,その支配力を領国内の浦々や港湾,海にそそぐ河口近辺におよぼしはじめると,そうした所を根城とした海賊は,いままで所有していた所領や海上諸権益の安堵や新しい所領の充行(あておこない)を大名権力からうけながら,守護大名の被官となったり,戦国大名の家臣に,それもその性格から海上軍事力を構成する警固衆に編成されて海賊としての性格を失って封建家臣に変身する経緯をたどるのがふつうである。…

【水軍】より

…1582年(天正10)武田氏の滅亡後,その水軍であった向井氏,小浜氏,間宮氏,伊丹氏らをみずからの支配下に入れ,今川氏の舟大将であった千賀重親を帰属させた。彼らはやがて江戸幕府の船手組,海賊奉行となるが,千賀氏は尾張徳川家に付属させられ,船手奉行として1500石の知行をうけた。旧来の海賊衆が,みずから戦国大名に上昇する場合もある。…

※「船手組」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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