船木庄(読み)ふなきのしよう

日本歴史地名大系 「船木庄」の解説

船木庄
ふなきのしよう

穂積ほづみ町北部から現巣南すなみ町・真正しんせい町の一部にかけて散在したとみられる山城法勝ほつしよう(跡地は現京都市左京区)領庄園。東方の本田ほんでん郷・只越ただこし郷・別府べつぷ(現穂積町)西方十四条じゆうしじよう(現真正町)十六条じゆうろくじよう(現巣南町)十九条じゆうくじよう(現穂積町)のほか十五条じゆうごじよう郷・十七条じゆうしちじよう郷・十八条じゆうはちじよう(現巣南町)からなる。

文治三年(一一八七)四月一〇日の菅原資高譲状案(壬生家文書)に「法勝寺御領船木庄内東方只越郷」とみえ、長男小童丸(為俊、法名覚俊)に譲られている。当庄は肥後守高階基実が開発したもので、嘉応年中(一一六九―七一)に領家職を留保して法勝寺に寄進され、領家職はそののち七人の子供らに分割譲与された(元久元年三月一〇日「船木庄只越郷文書紛失状案」同文書など)

〔只越郷〕

当郷は、基実より嫡女高階氏女―嫡女藤原信子―信子嫡男菅原資高へと譲られ(「美濃国船木庄開発相伝系図」以下当郷に関してはすべて壬生家文書)先述のように文治三年長男の為俊に譲られた。元久元年(一二〇四)三月三日に資高の京都の住居が焼け、当郷に関する文書を紛失したため、同月一〇日東西六郷の領主連名で、本家である法勝寺に安堵状を申請し、同二年一一月九日長男為俊(覚俊)に再び譲状を書き与えている(菅原資高譲状案)。正嘉元年(一二五七)一二月七日覚俊は静全(覚俊の子か)に当郷領家職を譲っている(覚俊譲状案)。正応二年(一二八九)九月一〇日静全は当郷を二分し、長男経意と次男盛祐に譲った(経章・静全連署譲状案)。元応二年(一三二〇)禅林ぜんりん(現京都市左京区)禅観が当郷を掠め取ったため経意・盛祐はこれを訴え、同年一二月二九日返還された。

正慶元年(一三三二)四月経意が死ぬと経意の一男在定は盛祐を追出し住宅を焼払った(暦応二年三月日法眼盛祐言上状案)。盛祐の子説光はこれを訴え、翌二年閏二月一六日只越郷全体の領家職が後伏見上皇から説光に安堵されている(後伏見上皇院宣案)。在定は仕返しのため坊門清房の養子となり、坊門清定と改名、養兄雅輔の威を借りて当郷を乱妨し、建武二年(一三三五)一一月再び盛祐の住宅を焼払い資財物を奪った(前掲法眼盛祐言上状案)。同三年八月頃、清定らは当郷地頭方に城郭を構えた(八月二〇日道忍書状案)。一方、説光は同四年二月一八日に光明上皇より当郷知行を安堵されたが(光明上皇院宣案)、七月清定変名の菅原幸増女の代官定家が当郷所有を訴え、八月一八日一方的に認められてしまい、清定が在庄し郷務を管領した。


船木庄
ふなきのしよう

現在の船木町・小船木こぶなき町・加茂かも町を中心とする一帯に比定される湖岸の庄園。古代蒲生がもう船木郷(和名抄)の郷域に成立したと思われる。現長命寺ちようめいじ町の長命寺には当地域にかかわる田・畠巻類が数多く伝えられる。これら長命寺文書によれば当庄は蒲生郡条里の一一条一九里、一二条一九・二〇・二一・二五里、一二条二一里に(弘長三年三月一〇日比丘尼信教充行状)、船木郷は同じく一二条二一里、一三条二一里(承保元年三月二日土師正助解文)、一五条一六里(寛喜三年一二月一六日紀守安売券)、一四条一八里(寛治二年一二月二六日良覚寄進状)などにかけて田畠の所在が確認できるものの中世の船木郷と当庄の関係は不明。なお一一条二一里には小船木庄の田地があり(弘安七年八月二九日尼欣阿弥陀仏寄進状)、一三条一九里から二一里にかけては賀茂(加茂)庄田地の所在が知られる。この賀茂庄は京都上賀茂社領の当庄領家職をそうよんだものらしい(延徳三年一一月二二日付「室町幕府奉行人奉書」賀茂別雷神社文書、以下集合文書名は断りのない限り同文書)。また当庄は上賀茂社とのかかわりが最も深かったが、ほかに山城醍醐寺三宝さんぼう院、京都南禅寺、朝廷、三鈷さんご(現京都市西京区)なども所領を有していたらしい。なお従来、三宝院領船木庄などを上賀茂社の御厨が置かれた琵琶対岸、安曇あど川河口の現高島郡安曇川あどがわ町北船木・南船木に比定する説もあったが、もちろん同所とする余地は残されるものの、のちの三宝院による禁裏料所船木に対する違乱などの経緯から判断して、ここでは当地に当てて考えたい。

船木の地名は船材の集散地(積出地)であったことに由来するといわれる。いつ頃から材木の積出地としての機能を果していたのかはわからないが、地域住民の多くは湖上交通や漁業に携わる海民としての性格を併せもっていたのであろう。寛治四年(一〇九〇)七月、白河上皇が諸国の不輸田六〇〇余町を上賀茂・下鴨両社に寄せ、対岸の安曇川河口部が上賀茂社の御厨とされたのと同様、当地も同社領の庄園として成立したものと推定されるものの、詳細は不明。源平争乱期の当庄は湖上交通の一起点であっただけに混乱に巻込まれ、また諸国武士による濫妨にも苦慮したらしい。諸国社領における狼藉などの停止を求めた上賀茂社の訴えにより発せられた後白河院庁下文を受けた源頼朝は、寿永三年(一一八四)四月二四日、武士による狼藉を停止し神事用途を備進すべき厳命を諸国に下した(同日付源頼朝下文案)


船木庄
ふなきのしよう

平城宮出土木簡にみえる舟木郷に立荘されたと考えられる荘園で、近世の船木村を中心にした地に比定される。

荘名は仁安二年(一一六七)八月二二日と推定される法師某書状(陽明文庫蔵「兵範記」嘉応元年一二月巻裏文書)に「船木御庄解給預候了、早可付申 上卿候、此訴于今不被裁断候者、不便無極候、恐謹言」とみえ、また同日の平時忠奉書(同文書)に「船木庄」とみえるのが早い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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