日本歴史地名大系 「船木庄」の解説
船木庄
ふなきのしよう
- 岐阜県:本巣郡
- 船木庄
現
文治三年(一一八七)四月一〇日の菅原資高譲状案(壬生家文書)に「法勝寺御領船木庄内東方只越郷」とみえ、長男小童丸(為俊、法名覚俊)に譲られている。当庄は肥後守高階基実が開発したもので、嘉応年中(一一六九―七一)に領家職を留保して法勝寺に寄進され、領家職はそののち七人の子供らに分割譲与された(元久元年三月一〇日「船木庄只越郷文書紛失状案」同文書など)。
〔只越郷〕
当郷は、基実より嫡女高階氏女―嫡女藤原信子―信子嫡男菅原資高へと譲られ(「美濃国船木庄開発相伝系図」以下当郷に関してはすべて壬生家文書)、先述のように文治三年長男の為俊に譲られた。元久元年(一二〇四)三月三日に資高の京都の住居が焼け、当郷に関する文書を紛失したため、同月一〇日東西六郷の領主が連名で、本家である法勝寺に安堵状を申請し、同二年一一月九日長男為俊(覚俊)に再び譲状を書き与えている(菅原資高譲状案)。正嘉元年(一二五七)一二月七日覚俊は静全(覚俊の子か)に当郷領家職を譲っている(覚俊譲状案)。正応二年(一二八九)九月一〇日静全は当郷を二分し、長男経意と次男盛祐に譲った(経章・静全連署譲状案)。元応二年(一三二〇)
正慶元年(一三三二)四月経意が死ぬと経意の一男在定は盛祐を追出し住宅を焼払った(暦応二年三月日法眼盛祐言上状案)。盛祐の子説光はこれを訴え、翌二年閏二月一六日只越郷全体の領家職が後伏見上皇から説光に安堵されている(後伏見上皇院宣案)。在定は仕返しのため坊門清房の養子となり、坊門清定と改名、養兄雅輔の威を借りて当郷を乱妨し、建武二年(一三三五)一一月再び盛祐の住宅を焼払い資財物を奪った(前掲法眼盛祐言上状案)。同三年八月頃、清定らは当郷地頭方に城郭を構えた(八月二〇日道忍書状案)。一方、説光は同四年二月一八日に光明上皇より当郷知行を安堵されたが(光明上皇院宣案)、七月清定変名の菅原幸増女の代官定家が当郷所有を訴え、八月一八日一方的に認められてしまい、清定が在庄し郷務を管領した。
船木庄
ふなきのしよう
- 滋賀県:近江八幡市
- 船木庄
現在の船木町・
船木の地名は船材の集散地(積出地)であったことに由来するといわれる。いつ頃から材木の積出地としての機能を果していたのかはわからないが、地域住民の多くは湖上交通や漁業に携わる海民としての性格を併せもっていたのであろう。寛治四年(一〇九〇)七月、白河上皇が諸国の不輸田六〇〇余町を上賀茂・下鴨両社に寄せ、対岸の安曇川河口部が上賀茂社の御厨とされたのと同様、当地も同社領の庄園として成立したものと推定されるものの、詳細は不明。源平争乱期の当庄は湖上交通の一起点であっただけに混乱に巻込まれ、また諸国武士による濫妨にも苦慮したらしい。諸国社領における狼藉などの停止を求めた上賀茂社の訴えにより発せられた後白河院庁下文を受けた源頼朝は、寿永三年(一一八四)四月二四日、武士による狼藉を停止し神事用途を備進すべき厳命を諸国に下した(同日付源頼朝下文案)。
船木庄
ふなきのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報