船木村
ふなきむら
[現在地名]本郷町船木、賀茂郡大和町大草
本郷村の西北に位置し、北西から南東へ流れる沼田川と支流菅川の合流地を中心に低地が広がり、北東の中野村(現御調郡久井町)との境に飛郷芋堀がある。「和名抄」所載の沼田郡舩木郷の地に比定され、のち沼田本庄に属し、菅川沿いに平坂、姥ヶ原(現大和町)を経て沼田新庄(現賀茂郡大和町・河内町・豊栄町一帯)へ通じた。村の南部、本郷村の高山城跡の北に続く鷺谷の丘陵から貝塚が発見され、鷺谷の北、沼田川東岸に位置する清井の丘陵突端の舟木遺跡からは、弥生時代後期の合口甕棺が出土している。
小早川氏の拠城高山城・新高山城に近接し、沼田庄中心部の一つで、小早川茂平の長子経平が船木郷地頭となり、船木氏の祖となった(小早川家系図)。建武三年(一三三六)正月二日の源朝臣某下文案(小早川家文書)によると、経平の孫貞茂は船木郷地頭職を元のとおり安堵されている。
船木村
ふなきむら
[現在地名]高宮町船木
東は高田郡北東端の粟屋村(現三次市)、西は佐々部村、北は江の川を境に備後国三次郡の村々(現双三郡)に接する。「芸藩通志」に「広一里廿町、袤二里、川一流澗水をうけて東北大川に入る、民、農余採樵をなす」とあるように、生田村(現美土里町)を源とする生田川が、途中枝川を集め、北村(現美土里町)、佐々部村を経て当村乙木で江の川に入る。なお江の川沿いの下難瀬は「国郡志下調書出帳」に「此所大岩にて荷物通船出来不申、凡江川筋にて難所と申」とある。
「和名抄」所載の高田郡舩木郷の地に比定され、嘉保二年(一〇九五)八月一五日付の高田郡司藤原頼成解(新出厳島文書)に頼成相伝の畠のうちとして「船木郷参拾町」とある。
船木村
ふなきむら
[現在地名]宮之城町船木
宮之城郷屋地村の南、川内川岸の台地などを占める。南は山崎郷山崎村・久富木村。屋地村の領主仮屋を起点として、川内地方へ向かう道が南北に通り、五反田から入来方面へ南下する道も通る。村名は北東部の弥三郎ヶ岡の山間から船材を切出したことに由来するともされる。享徳元年(一四五二)島津氏により
答院の検田が行われた際、九月一日に時吉の穴川口から始められた検田は一〇月二〇日までの間に「上舟木・下舟木」などの地を終えている(寛正五年「平徳重覚書」町田氏正統系譜)。当時船木地区をほぼ二分している船木川(現五反田川)を境として北部を上舟木、南部を下舟木とよんだと推定される。
船木村
ふなきむら
[現在地名]長柄町船木
中野台村の東に位置する。船木村絵図(年未詳、矢部家蔵)では東西一四町一間・南北一八町八間余で、東部は平地で、西部の山地にも耕地が開かれている。味庄の天満神社蔵の応永一七年(一四一〇)九月の鰐口銘に上総州二宮庄内舟木郷とみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二七六石。元和六年(一六二〇)の検地により高二七八石余となり、天和三年(一六八三)切添新田の高入れがあった(宝永六年「高辻差出目録」多賀家文書)。さらに貞享元年(一六八四)・享保一〇年(一七二五)の検地帳写(矢部家文書)が残される。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では旗本安藤・市岡・曲淵領。
船木村
ふなきむら
[現在地名]新居浜市船木
新居浜市の東端の関ノ戸を通る南北の境界線で現宇摩郡土居町に接する。南は赤石山系の上兜山(一五六三メートル)・下兜山(一二三三・七メートル)の北麓一帯を占め、市場・客谷・種子・国領の諸河川のつくる複合扇状地上にあり、北西に向かって緩傾斜する。西境は北流する国領川とその支流種子川を限りとする。
西北部の檜端に弥生時代の竪穴式住居跡ともみられる遺跡があり、中央部の上原には須恵器の窯跡があることから、古代文化進展の地と思われる。
船木村
ふなきむら
[現在地名]近江八幡市船木町・小船木町
小船木村の北西にあり、東は八幡町、北は南津田村。集落は鶴翼山西麓の八幡堀右岸に位置する。地名は古くから造船用木材の集散地であったことに由来するという。古代蒲生郡船木郷(和名抄)、中世船木庄の遺称地。地内に琵琶湖沿岸の要港の一、船木湊がある。
慶長五年(一六〇〇)九月一九日、徳川家康は「南津田 舟木」に禁制(西川文書)を下している。寛永一〇年(一六三三)山城淀藩永井氏領、寛文九年(一六六九)永井氏の転封により丹後宮津藩領、延宝五年(一六七七)幕府領となる。
船木村
ふなきむら
[現在地名]鳥取市船木・南栄町
桂木村の西に位置する。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)には東・西・北の三方がほぼ直線的に描かれており、条里に準じたものと考えられる。南西部を若桜往来(八東往来とも)が通る。また東谷・西谷のそれぞれに灌漑用の溜池が描かれている。拝領高は二六五石余、本免は五ツ六分。藪役銀一五匁四分余を課されており(藩史)、渡瀬氏の給地があった(給人所付帳)。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によれば生高二九七石余、竈数一六。安政三年には宿送継場に指定されている。草刈は広岡村・香取村領の入会地で行った(在方諸事控)。文久元年(一八六一)は不作で、同年の極難渋人粥米願帳(福田家文書)には当村の一八名の名が載る。
船木村
ふなきむら
[現在地名]弥栄町字船木
小金山の西山麓、竹野川支流の奈具川上流に位置する。四周は山に囲まれる。
平城宮出土木簡に「丹後国竹野郡舟木郷生
須
」とある舟木郷は当地をさすと推察され、「丹後国風土記」逸文に「竹野の郡船木の里」とみえる。中世は船木庄の地。
慶長検地郷村帳に高三四九・〇六石「舟木村」とあり、延宝九年(一六八一)延高によって四二一石余となる(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六―九年(一六六六―六九)、延宝八―九年の間、および享保二年(一七一七)以降は幕府領。
村内に奈具の地名が残るが、嘉吉三年(一四四三)九月の奥丹後豪雨の被害で、一村みな流失した船木庄内の奈具村の地で、亡村となり生き残った住民は隣村の溝谷村と外村へ避難移住したと伝える。
船木村
ふなきむら
[現在地名]大宮町船木
三瀬川村の西、東流する宮川に大内山川が合流する河岸段丘にあり、背後に山を負う。村名は倭姫命が当地で御船を造り行幸したことにちなむといい、御船木村とも称したと伝えられる。応永元年(一三九四)八月一一日の多岐原神社祝部秦左近の「真奈胡記写」(大宮町教育委員会蔵)に「船木村小山」とみえ、三瀬川村氏神祭祀の入用米として、小山の田米一石八斗を供進する例であったことがうかがえる。
船木村
ふなぎむら
[現在地名]平戸市船木町
津吉村の北東に位置し、東部は海に臨む。中世は宇野御厨のうち。元亨二年(一三二二)一〇月一七日の鎮西御教書(山代文書)に「津吉島船木長田」とみえ、当地などの余田の百姓名をめぐって津吉紀が山代正を訴えている。建武二年(一三三五)「宇野御厨内山代・多久島・船木・東島」などの地頭職が正の子の山代亀鶴丸(弘)に安堵されている(同年一〇月七日「太政官符案」同文書)。同四年山代弘に亡父の正が残した文書(正和三年一二月一六日下知状・元亨元年八月一〇日譲状)に基づいて宇野御厨内の当地の地頭職などが安堵され(同年四月三日「足利直義安堵状」同文書)、北朝方に付いていたことが知られる。
船木村
ふなきむら
[現在地名]小野市船木町
中番村・菅田村の東に位置し、西流する東条川が南へ迂回し、さらに西向きに流路を変える先端部の右岸に集落を形成している。左岸は丘陵が川まで迫り、右岸の集落背後には段丘地形が広がる。東は東条川を挟んで名村田村。慶長国絵図に舟木村とみえる。領主の変遷は門前村に同じ。正保郷帳では田方三一七石余・畑方四八石余。元禄郷帳では名村田村が分村したことにより高三〇一石余。天保郷帳では高三一八石余。灌漑用水は当村と浮坂村立会の鴉谷池、当村と菅田村立会の東池や当村と名村田村立会井堰のほか村持の溜池一〇ヵ所から得ている。四ヵ村立会の余田井堰の用水は高六七石余を潤すのみである(天保―安政頃「両郷村々用水掛控」前田家文書)。
船木村
ふなぎむら
[現在地名]千歳村船田 干草場・真米・長迫下・長迫上・原・平井・新藤下・新藤上
新殿村の西、茜川北岸の山間部にある。正保郷帳に船木村とみえ、井田郷に属し田高一〇一石余・畑高五五石余、柴山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高二〇六石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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