日本歴史地名大系 「船越館跡」の解説 船越館跡ふなこしたてあと 岩手県:下閉伊郡山田町船越村船越館跡[現在地名]山田町船越JR船越駅南方の海岸段丘上にあって、本城と詰の城の二つからなる。本城は段丘の先端にあり、主郭とその下に二段の郭が造られ、詰の城との間は大きな空堀で切られる。現在この空堀と城郭の一部を壊してJR山田線と国道四五号が通る。詰の城は屹立した旧段丘の先端を削って、三重、あるいは四重の帯郭をめぐらし、背後を空堀で切って尾根からの侵入を防いでいる。館主は船越氏。築城年代はつまびらかでないが、阿部家伝(豊間根文書)に「頼朝より三代目実朝の御代、佐々木太郎、二男次郎二人、閉伊の内沼田と云へる所へ流人となりて下り候処に、元来その家高きとて村々の諸士思いつき馳せあつまりけり。 船越館跡ふなこしやかたあと 兵庫県:三原郡緑町庄田村船越館跡[現在地名]緑町倭文庄田 御土居倭文庄田(しとおりしようだ)地区の西方、御土居(おどい)にある。周辺は低丘陵に囲まれた小規模な盆地で、館跡は丘陵を背後に負い、南面して築かれ、東辺には倭文川が流れる。船越氏の居館跡といわれ(「淡路草」など)、貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に長田(ながた)村などの地頭とみえる船越右衛門尉にかかわるか。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by