若草町
わかくさちよう
面積:一〇・二八平方キロ
郡の東部に位置し、東は釜無川を隔てて田富町、西は櫛形町、南は甲西町、北は白根町に接する。町域は御勅使川・滝沢川扇状地および釜無川の氾濫原の平坦地に広がり、豊かな穀倉地帯の景観を呈する。櫛形山東麓の水田耕作が中心であった諸村を田方と呼称し、当町域にあった七村はすべて田方に属した。町域は南北五・一四キロ、東西三・七五キロ、北西部と西方部に突出部をもつ。東境を釜無川が南流し、南西境を櫛形山を水源とする河川を集めた滝沢川が南東流する。北西部を主要地方道甲府―櫛形線(戸田街道)がかすめて通り、南部を櫛形町小笠原で国道五二号から分岐した県道韮崎―櫛形―豊富線が走る。
昭和六〇年(一九八五)に実施された遺跡分布調査により、延べ八六ヵ所の遺跡が確認された。時代別では弥生時代後期一〇・古墳時代前期二四・同後期八・奈良時代四・平安時代前半五一・同後半以降(一一世紀から中世)五六で、縄文時代以前の遺跡は未確認である。これは町域が御勅使川扇状地の南端部にあり、滝沢川の小扇状地や釜無川の氾濫原といった河川に関連する地形のみによって構成されていることから、低湿な土地を必要とする水田農耕を生業の柱とする弥生時代以降に、生活の場として利用されるようになったからであろう。地域別では十日市場・寺部・鏡中条付近の御勅使川扇状地先端部に各時代の大半の遺跡があり、規模も大きい。一方加賀美を中心とする滝沢川の小扇状地上の遺跡は、規模が小さく、平安時代後半以降のものが多い。これらの遺跡のうち十日市場の二本柳と新居道下の二遺跡が発掘された。新居道下遺跡からは弥生時代後期の溝が検出され、古墳時代後期の住居跡が確認され、うち三棟が調査されている。また奈良時代から平安時代前半にかけての大規模な集落跡は竪穴住居跡ばかりでなく、掘立柱建物跡もみられ、一部竪穴住居跡が柵列によって区画された地域に分布するなどほかにみられない特徴をもつ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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