茂木 惣兵衛(3代目)
モギ ソウベエ
大正・昭和期の実業家 茂木銀行頭取;茂木合名会社社長。
- 生年
- 明治26(1893)年3月24日
- 没年
- 昭和10(1935)年4月16日
- 出生地
- 神奈川県横浜市
- 旧姓(旧名)
- 茂木 良太郎
- 学歴〔年〕
- 八高〔大正1年〕中退
- 経歴
- 父・2代目保平は二大生糸貿易商の一人で、茂木銀行など生糸金融機関を設立。大正元年父の死で八高を中退して家督を相続し、茂木銀行頭取、茂木合名会社社長に就任する。第二銀行、第七十四銀行、横浜貯蓄銀行などの取締役、横浜船渠、横浜生糸、帝国撚糸織物などの監査役も務める。7年の米騒動では救済事業に献身した。9年恐慌で茂木家が破産する。12年渡米し、13年ヨーロッパ諸国を歩き、ロンドン大学で社会学を修め、同大に日本人学生会を組織。また第12回から14回のILO総会に労働者側代表を補佐する。その後も日本海員組合代表代理として国際労働組合会議に出席。昭和8年帰国し東京政治経済研究所所員となり、第5回太平洋会議に出席した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
茂木惣兵衛(初代)
没年:明治27.8.21(1894)
生年:文政10.10.20(1827.12.8)
明治期の有力な横浜生糸売込商。上野国群馬郡高崎(高崎市)の質商に生まれる。幼名は惣次郎。実家は弟に継がせ,地元で絹・生糸の取引を行っていたが,安政6(1859)年,開港まもない横浜の売込問屋野沢庄三郎店に入って活躍した。文久1(1861)年,庄三郎が没すると惣兵衛は野沢屋の暖簾を譲り受けて独立。以後,茂木家は原家と並ぶトップクラスの横浜生糸売込問屋に成長していった。惣兵衛はまた横浜為替会社,第二国立銀行,第七十四国立銀行などの頭取,副頭取も務めた。若いときから「能く積んで復た能く散じ」たといわれ,のちにも営業利益を各方面に盛んに寄付したことが知られている。晩年,隠居して保平と改称し,長女の婿養子とした甥の保次郎が2代惣兵衛となり,初代没後,家督を引き継いだ。しかし2代惣兵衛は病弱のため,初代の次女の婿養子となった2代保平(名古屋の豪商滝定助の次男泰次郎)が営業を統括した。大正1(1912)年には2代惣兵衛,2代保平が共に没し,2代保平の嫡男良太郎が家督を継ぎ,3代惣兵衛となった。茂木家は生糸売込業のほか輸出業などにも事業を拡大していったが,大正9年恐慌により同家の事業は破綻した。<参考文献>藤本実也『開港と生糸貿易』中,広田三郎編『実業人傑伝』1巻
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
茂木惣兵衛(初代) もぎ-そうべえ
1827-1894 幕末-明治時代の実業家。
文政10年10月20日生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)高崎の質商の長男。元治(げんじ)元年(1864)横浜に生糸売込商野沢屋茂木商店をひらき,明治初年には原善三郎の亀屋とならぶ売込問屋に成長させた。明治7年第二国立銀行副頭取,14年第七十四国立銀行頭取。明治27年8月21日死去。68歳。前名は惣次郎。後名は保平(やすへい)。
茂木惣兵衛(3代) もぎ-そうべえ
1893-1935 大正時代の実業家。
明治26年3月24日生まれ。茂木保平(やすへい)の長男。父の死により八高を中退,20歳余で茂木合名社長となる。第一次大戦による好況で事業を拡大。大正9年戦後恐慌のため,七十四銀行を整理し,破産した。12年ロンドン大に留学。昭和10年4月16日死去。43歳。神奈川県出身。前名は良太郎。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
茂木 惣兵衛(3代目) (もぎ そうべえ)
生年月日:1893年3月24日
大正時代;昭和時代の実業家
1935年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の茂木惣兵衛の言及
【上野国】より
…糸価は維新までに約6倍に暴騰し,伝統の蚕糸業界はにわかに活況を呈した。いち早く横浜に進出する貿易商人も十指をこえたが,その先鞭をつけた中居屋重兵衛,のち業界に君臨した茂木惣兵衛などはその代表である。前橋藩も幕末から領内生糸の統制にのり出し,1869年(明治2)藩営直売所を横浜に設け,翌年洋式器械製糸所を前橋に開設した。…
※「茂木惣兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」