日本歴史地名大系 「草部村」の解説 草部村くさかべむら 熊本県:阿蘇郡高森町草部村[現在地名]高森町草部高森町の東南部に位置する明治九年(一八七六)成立の村名。東は下切(したぎり)村・永野原(ながのはる)村、西は竹原(たけばる)村・高畑(たかばた)村(現蘇陽町)、北は中(なか)村、南は芹口(せりぐち)村に接する。川走(かわばしり)川左岸一帯にあり、近世には西から木江(きごう)村・小崎(こざき)村・草部村・社倉(しやくら)村と並ぶ。南郷一〇ヵ村のうちの一村で、代々阿蘇大宮司家に相伝された。現存する譲状・安堵下文によると、鎌倉時代には阿蘇惟泰・「あそとの」・惟次(継)・惟義・惟景・惟資・惟国の順に相伝され、そのつど北条氏によって安堵されている(承久二年九月一四日「北条義時下文」など、阿蘇家文書)。 草部村くさべむら 大阪府:堺市草部村[現在地名]堺市草部上(か)村の南に位置する。村の東側を石津(いしづ)川が北西流し、南の菱木(ひしき)村から北流、村内を流れた和田(わだ)川を合流する。村の南西端部に鶴田(つるた)池・元禄(げんろく)池がある。大鳥郡に属する。古代、駅の置かれた地で「延喜式」(兵部省)の「諸国駅伝馬」の項に「和泉国駅日部、唹各七疋」とみえる。古代・中世ともに草部郷に含まれる。近世、当村には深小路・寺・太・馬場・石橋・坂岡の各村および万崎村(半分)の枝郷があり、石高は当村に含まれていた(泉州志補遺)。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図には「くさべ」とみえ高九八〇石余。その後変化なく続くが、天保郷帳で一千一三五石余となり一五四石余の大幅な増加がみられる。 草部村くさべむら 兵庫県:氷上郡山南町草部村[現在地名]山南町草部・美和(みわ)南は中(なか)村、北は小野(おの)村(現氷上町)、西は佐治(さじ)川(加古川)が流れる。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一一二石余・畠高五二石余、芝山あり、日損・水損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領、天和二年(一六八二)旗本水野家(享保一〇年安房北条藩、高一五石余)と同大久保家(高一二五石余)の相給となる。 草部村くさべむら 愛知県:新城市草部村[現在地名]新城市富永(とみなが)重広(しげひろ)村の東にあたる。近世を通じて新城藩領。安政七年(一八六〇)の火消人数定(新城町誌)によると、家数一六である。村域北の台地上、松尾(まつのお)神社の近辺に松尾遺跡があり、縄文晩期の水神平式土器から弥生式土器までが出土する。また南の神田(じんでん)遺跡も同じく縄文晩期から弥生期の遺跡であるが、さらに土師器・須恵器、布目瓦、山茶碗も出土し、地名からみても松尾神社に関係する遺跡であることを思わせ、方格地割も見いだされる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by