菅谷館跡・須賀谷城跡(読み)すがややかたあと・すがやじようあと

日本歴史地名大系 「菅谷館跡・須賀谷城跡」の解説

菅谷館跡・須賀谷城跡
すがややかたあと・すがやじようあと

[現在地名]嵐山町菅谷

菅谷の南東部、都幾とき川の左岸にある。同川の段丘崖を南方背後に控える台地縁を占め、館(城)跡の東西ともに都幾川に直交して流れ込む浸食谷に囲まれる。地の利を巧みに活かした構築で、中世の鎌倉街道上道の都幾川渡河点を押えている。菅谷館は鎌倉幕府の有力御家人畠山重忠の居館であり、のちに同館跡に河越城の向城須賀谷城が築かれたという。現存する城館跡遺構は一五世紀後半に築造された須賀谷城のものと考えられるが、菅谷館の名称で国の史跡に指定されている。

〔菅谷館〕

文治三年(一一八七)一一月、梶原景時は畠山重忠が「武蔵国菅谷館」に引籠り謀反を企てているとの風聞を源頼朝に伝えている(「吾妻鏡」同月一五日条)。同年、重忠は所領における代官押妨の責を問われ、所領四ヵ所を収公されて一時身柄を千葉胤正に預けられていた。まもなく許されて武蔵国に下向しているが(同書同年六月二九日条・一〇月四日条など)、このときに景時が前出重忠謀反の風聞を注進したのである。頼朝は下河辺行平を「畠山館」に遣わして真偽を問わせ、行平に同道して鎌倉に赴いた重忠が反意のないことを頼朝に釈明している(同書同年一一月二一日条など)

畠山氏は平良文流秩父氏の一族で、重忠の父重能(秩父重綱の孫)男衾おぶすま畠山はたけやま(現川本町)の開発領主となって畠山庄司を称したことに始まるとされる(「尊卑分脈」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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