萱場村(読み)かやばむら

日本歴史地名大系 「萱場村」の解説

萱場村
かやばむら

[現在地名]茂原市萱場

小萱場こかやば村の東に位置し、北東部を赤目あかめ川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳にみえる高一〇〇石余の萩場村が当村か。江戸時代初期に小萱場村を分村したという。寛文元年(一六六一)には旗本小尾領(本大寺文書)。同八年の鷹場五郷組合帳では高四三〇石。元禄郷帳では高五一一石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高七〇七石余、幕府領と小尾領の相給で、家数一〇八。改革組合帳では旗本松平領が加わり、旧高旧領取調帳では幕府領に代わって鶴牧藩領が加わっている。


萱場村
かやばむら

[現在地名]浜松市中野町なかのまち国吉町くによしちよう

中野町村の南に位置し、北を東海道が通る。豊田郡の西端で、西は長上郡安間あんま村。茅場村ともみえ(正保郷帳など)、「東海道名所図会」などでは「かやんば」とよんでいる。「和名抄」所載の長上郡茅原かはら郷の遺称地とする説がある(遠江国風土記伝)。永禄一一年(一五六八)一二月一二日の徳川家康判物写(鈴木重信氏所蔵文書)に「かやは」がみえ、徳川家康の遠州攻めに功績のあった鈴木重時ら井伊谷三人衆に当地などを与えている。鈴木らは結局当地を領有しなかったようで、同年一二月二六日に家康が鵜殿氏長ら九人に与えた知行地に当地が含まれている(「徳川家康判物写」譜牒余録後編)


萱場村
かやばむら

[現在地名]岐阜市萱場・萱場町・萱場北町かやばきたまち萱場東町かやばひがしまち則武西のりたけにし一丁目

瓢箪形のしま輪中の下部北端にあたり、長良古川が北をめぐる。南は北島きたじま村、東は近島ごんのしま村、西は旦島だんのしま村。集落は中央西寄りにあり、南部を北方きたがた(現本巣郡北方町)に通じる街道が通る。慶長郷帳に「加屋場村」などとみえ、高二〇一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によれば、尾張藩領(石河光忠知行)奥平忠隆(加納藩)領・旗本日根野高継領。正保郷帳には萱場村とみえ、畑二〇一石余・桑木高八斗余。尾張藩領四一石余・加納藩領一三四石余・幕府領二四石余。宝暦五年(一七五五)加納藩領は幕府領となり、安永四年(一七七五)には、もとからの幕府領二四石余とともに大垣藩預所となり幕末に至る。


萱場村
かやばむら

[現在地名]深谷市萱場・見晴町みはらしちよう

櫛挽くしびき台地の北端にあり、東は東大沼ひがしおおぬま村など、西は宿根しゆくね村。深谷領に所属(風土記稿)。中山道分間延絵図などには茅場村とみえる。村内を中山道が通り、またこれと並行してなか(萱場古道)が走るが、中道は古代武蔵国が東山道に属した頃に整備された駅路といわれる。田園簿によれば田方二六石余・畑方九二石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳でも同領で、ほかに寺領(清心寺領)がある。天保元年(一八三〇)に一三二石余が忍藩領となる(忍藩新領高覚書)。南方の櫛挽野に二二ヵ村共有の入会秣場があったが、享保一五年(一七三〇)までに解体されており、櫛挽野くしびきの新田のうちに当村分の持添新田(幕府領)が成立している(新編埼玉県史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android