蓮城寺(読み)れんじようじ

日本歴史地名大系 「蓮城寺」の解説

蓮城寺
れんじようじ

[現在地名]三重町内山

三重川西岸、国道三二六号沿いにある。有智山と号し、高野山真言宗。本尊千手観音内山うちやま観音の名でも知られる。開基は蓮城、創建は真名長者小五郎と伝える。延享元年(一七四四)成立の「豊鐘善鳴録」によれば、蓮城は百済人で隋に遊び、南嶽恵思に学んだというが、伝承の域を出ない。真名長者小五郎は全国的に分布している炭焼長者譚の基になった人物で、室町時代に成立した幸若舞の「烏帽子折」のなかに「つくし豊後の国内山といふ所に長者一人有」「まのどのとこそ申けれ」と記され、蓮城同様伝説上の人物とされる。この真名長者が来日した蓮城のために一宇建立し、有智山うちやま精舎と名付けたのが当寺であるという。

文治四年(一一八八)三月一〇日の大法師基覚譲状案(大友文書)に「三重郷内山寺」とみえ、基覚重代相伝の院主職が嫡弟覚秀に譲られている。ただし代々の祖師譲状などの証文は、基覚上洛の折に預けた玉田太郎が宿所火災の際焼失したと称して抑留したとある。ここから当寺は平安時代後期にはすでに創建されていたことがわかる。院主職は文永一一年(一二七四)四月覚仁から舎弟覚智へ譲られ、建治元年(一二七五)八月二四日安堵された(「某下文案」同文書)。弘安二年(一二七九)三月一一日には三重郷での殺生が禁じられ、内山寺敷地内での違犯があれば注進するよう院主に命じられた(「左衛門尉泰能奉書案」同文書)。翌三年一一月二七日には本堂造営に人夫出役などの合力をするよう三重郷中に命じられている(「某下知状案」同文書)。嘉暦年間(一三二六―二九)以前に院主職と免田山野等を相伝所職とする僧素郁と覚実の間で相論があった。素郁の主張によれば、当寺は元来浄行持律僧侶を院主としていたが、素郁が幼少の折に非分の妻帯の身である覚実により押領されたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の蓮城寺の言及

【三重[町]】より

…近年,芦刈地区に工業団地が造成され,電子部品やコンクリートなどの工場が進出している。蓮城寺(内山寺,内山観音とも呼ぶ)は炭焼小五郎伝説にまつわる寺として知られている。伝説によれば,欽明天皇のとき,百済(くだら)から僧蓮城を招来し,真名野(まなの)長者となった炭焼小五郎が建立したという。…

※「蓮城寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」