内山村(読み)うちやまむら

日本歴史地名大系 「内山村」の解説

内山村
うちやまむら

[現在地名]高岡町内山

五町ごちよう村の東、赤江あかえ(大淀川)北岸にある。北・東は飯田いいだ村。南東に野町の高岡町、浦之名うらのみよう村の南、赤江川南岸に飛地の去川さるかわ村がある。薩摩街道が麓地区を東西に横切り、五町村へ向かう。中世には内山城が築かれ、その周辺地区は内山と称された。天正一六年(一五八八)正月の上井秀秋知行目録(高岡名勝志)によれば、内山村内五反の地が大日だいにち寺領として与えられた。慶長一九年(一六一四)には内山村内の高七石余が同寺領として宛行われ(「島津氏知行目録」同書)、五〇石余が長福ちようふく寺に、四二石余が竜福りゆうふく寺に宛行われている(「町田久幸外三名連署知行目録」旧記雑録)

「日向記」によれば、慶長五年の関ヶ原合戦後、伊東氏家臣稲津掃部が蜂起して島津・伊東両氏間で緊張が高まった。一〇月三日、島津方は穆佐むかさ倉岡くらおか(現宮崎市)佐土原さどわら(現佐土原町)八代やつしろ(現国富町)あや(現綾町)に大軍を動員する一方、「高崎尼ケ辻」と木脇きわき(現国富町)東長とうちよう寺に新たに城を構えた。この「高崎尼ケ辻」の城が大淀川北岸、高岡市街地の北にあるあまヶ城(高岡城・麓城)であろう。一〇月一八日穆佐などの兵が宮崎城を攻撃した時のあまつじの大将は島津藤四郎であった(日向記)。また「高岡名勝志」によれば、これらの合戦の際八代辺りまで伊東方の攻撃を受けたことから、島津方は境目警固のため去川関の外、久津良くつら名のうちに外城を置き、城を天ヶ城、外城(郷)を高岡と名付けて四〇余ヵ所から士を移住させたという。


内山村
うちやまむら

[現在地名]佐久市大字内山

村の東端に荒船あらふね(一四二二・五メートル)があり、荒船山の南は星尾ほしお(一三〇〇メートル)、荒船山の北は内山峠で、これを越えると上野国甘楽かんら下仁田しもにたである。南は田野口たのくち(現南佐久郡臼田町)と荒船山の支脈で境し、北安坂きたあんざか峠を越えれば、志賀しが村の東西を富岡とみおか(現国道二五四号)が通じる。西の平賀ひらが村の宿を抜けると、内山峡といわれる内山川沿いのほぼ東西に走る峡谷に入る。峡谷の長さ約一二キロ。内山川は源を荒船山に発し、滑津なめづ川となって千曲川に注ぐ。

内山川の流れにさからって、下流から松井まついまち肬水いぼみず中村なかむら相立あいだて苦水にがみず大月おおつき黒田くろだ神房かんぼうたてさわの集落が続いている。松井の標高が七〇〇メートル、黒田が八六〇メートル、東に向かって急に高度を増して荒船の山麓に達する。

館ヶ沢遺跡は内山谷の最奥荒船山麓の開拓地にある。縄文中期初頭から中期後半にかけての土器片が採集された。西和田にしわだ古墳群・長峰ながみね古墳群は村の西、後家ごか山の東部に位置し、小さな円墳群で横穴式石室のものである。


内山村
うちやまむら

[現在地名]浜松市庄内町しようないちよう

堀江ほりえ村の南、庄内半島の中ほどに位置。現庄内町は集落の西側に浜名湖があり、東側に水田が展開するが、東側の水田は近世を通じて徐々に埋立てられたもので、旧景観は集落の東西ともに浜名湖に面していた。現菊川きくがわ町の妙照みようしよう寺が所蔵する大般若経巻五奥書に「此般若、応永十癸未孟春上元日、於内山真福寺写畢、筆者明清僧雖書斯置」とある。ただしこれは江戸時代に転写した際の奥書である。同じく巻九〇奥書には、応永一三年(一四〇六)三月二八日に三河額田ぬかた真福しんぷく(現愛知県岡崎市)の住僧が「遠州淵郡村櫛庄内山如意寺」で書写したとある。永享三年(一四三一)一〇月二八日に書かれた巻六〇〇の奥書によれば、大般若経の巻四〇〇までは「大日本国東海路遠江州村櫛庄内山之如意禅寺」が所持し、近年如意によい(現廃寺)の住持元能が四〇〇巻を崎村櫛さきむらくしの興徳禅庵に寄付したことなどが記されている。


内山村
うちやまむら

[現在地名]八日市場市内山

小高おだか村・飯高いいだか村の東に位置する。香取郡に属し、北はさか(現多古町)、南西は新田しんでん村、南は匝瑳そうさ大浦おおうら村。南端付近を借当かりあて川が東流する。中世は匝瑳北条そうさほうじよう庄に属する。応安七年(一三七四)六月二四日の安富道轍注進状写(香取文書)によると、香取社領をめぐる相論の際、千葉満胤家人内山中務丞が鎌倉府の遵行使の入部を妨害している。この内山中務丞は当地を本貫とする在地武士と推測される。また明徳元年(一三九〇)二月二一日の印信(滑川家文書)に「下総国北条内山真乗院道場」とあり、鏡範が当地内の真乗院道場で東光とうこう(現銚子市)の吽恵に秘密許可第二重印信・秘密許可第三重印信を伝授している。


内山村
うちやまむら

[現在地名]新居町内山

新居宿の西の丘陵地に位置し、北は中之郷なかのごう村、南は橋本はしもと村、西は山口やまぐち(現湖西市)。中世は吉美きび庄のうち内山郷が成立していた。観応三年(一三五二)七月五日、渋川直頼が「遠江国吉美庄内々山郷」を臨川りんせん三会さんえ(現京都市右京区)に寄進し(「渋川直頼寄進状写」臨川寺重書案文)、同年九月一五日に足利尊氏によって安堵された(「足利尊氏寄進状写」同案文)。貞治四年(一三六五)二月二二日には三会院領の吉美庄内山郷地頭職などが北朝から伊勢神宮役夫工米、御禊大嘗会、勅役・院役、都鄙寺社所役、国中段米・関米などの所役を免除されている(「官宣旨写」同案文)


内山村
うちやまむら

[現在地名]南足柄市内山

北・東境を酒匂さかわ川が流れ、西は矢倉沢やぐらさわ村、南は怒田ぬだ村・苅野一色かりのいしき村、北西は平山ひらやま(現足柄上郡山北町)と接し、東南より北に関所せきしよ道が通る。

近世は小田原藩領。寛永初期の小田原領西筋村々高ノ帳に「高三百五拾四石八斗三升五合 内山村」とあり、元禄郷帳では四七八石余、天保郷帳では八一一石余に増加している。慶長年間(一五九六―一六一五)に村東の春日かすが山から東北方に突出した春日森かすがのもり土手が藩主大久保忠隣によって築かれた(宝永四年「大川通り惣堤間数改帳」足柄上郡大井町酒井文書)


内山村
うちやまむら

[現在地名]厳原町内山

久田くた村の北西にある内陸部の村。同村より舞石めえし峠を越えて約二里、四面を山に囲まれた山間の盆地にある。北方に対馬第一の高峰矢立やたて(六四八・五メートル)がそびえ、その東に大鳥毛おおとりげ山・舞石ノ壇山が連なり、南に萱場かやば壇・竜良たてら(五五八・五メートル)が続き、西に矢立山から延びた嶺が延び、周囲の村落と隔絶した地勢。南西の渓谷によっての村に出る。


内山村
うちやまむら

[現在地名]太宰府市内山・宰府さいふ六丁目

宰府村の東、宝満ほうまん山南西麓、宝満川支流で南へ流れるはる川の最上流域にある。北は北谷きただに村、東は大石おおいし(現筑紫野市)。村名は有智山うちやまとも記される(続風土記)。内山寺・有智山寺・竈門山かまどさん寺などともよばれた大山だいせん寺、竈門山下宮・中宮、少弐氏の居城であった有智山城跡などがあった。永禄七年(一五六四)と元亀元年(一五七〇)の御祓賦帳(神宮文庫蔵)に「うち山」または「うちやま」の「助左衛門殿」がみえ、これは当地の住人と思われる。


内山村
うちやまむら

[現在地名]宇奈月町 内山

黒部峡谷の入口、黒部川左岸に位置し、西と南は黒部奥山(現黒部国有林)、北は下立おりたて村。ほとんどが山地で、現在の宇奈月温泉街もかつては当村に含まれていた。地内には内山・桃原ももはら開・大野おおの開・中黒なかぐろ開があった。貞和四年(一三四八)一〇月日の得田素章軍忠状(遺編類纂所収得田文書)に「内山城」とみえる。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)以降加賀藩領。正保郷帳では高二六九石余、田方七町八反余・畑方一〇町一反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三二一石、免三ツ七歩、小物成は山役四八匁・蝋役一六匁・鍛冶炭役五五匁・鮭役四八匁二分・鱒役一五匁・鮎川役一匁四分(三箇国高物成帳)


内山村
うちやまむら

[現在地名]龍野市誉田町内山ほんだちよううちやま

宿しゆく(鵤宿)村の北に位置し、揖東いつとう郡に属した。宿村との境にささ山がそびえる。中世にはいかるが庄に含まれた。永禄一〇年(一五六七)一一月九日の二徳私領配分田数注文(安田文書)によると、鵤庄国久名内の地一段四〇代が内山村・山田・平位に分譲された。またこのとき同名の地一段が楽々ささ山に寄進されているが、その地は内山村前にあった(年月日未詳「鵤庄田数注文」同文書)


内山村
うちやまむら

[現在地名]温泉町内山

宮脇みやわき村の南西にあり、うしみね山の北東麓、岸田きしだ川支流小又こまた川の下流域を占める。南西は越坂おつさか村。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「おち山」とみえ、当地には「与三ひやうへ殿」などが住していた。文明三年(一四七一)の八太庄領家分米銭納帳写(中村文書)にも「おち山」とみえる。江戸時代の領主の変遷は千谷ちだに村に同じ。郡中惣高(福井家文書)では太閤検地高とみられる古高四〇石余。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高九五石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では村高は前出の古高に復している。


内山村
うちやまむら

[現在地名]木島平村大字穂高ほたか

本村は背後にじよう山を背負い、西方は北鴨きたかもはら稲荷いなり村に接している。初出は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳で、一八九石六斗二升二合になっているが、寛文一一年(一六七一)検地帳では一九五石九斗三升と記されている。検地帳よりめぼしい地名をあげると、おくらやしき・いずみやしき・堀切ほりきりなどがあり、ぼら地名も多く、その周囲にぬかり・ぢくたみの地名が存在し、地形よりも館跡がはっきりしている。領主は不明であるが、天正年間(一五七三―九二)の創立と伝える曹洞宗の霊泉山竜興りゆうこう寺と隣の八幡はちまん社のたたずまいは、清水の豊かな中世の集落を思わせる。


内山村
うちやまむら

[現在地名]三重町内山 内山

鬼塚おにづか村の南、北流する三重川流域にある。日向道がほぼ南北に通る。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には「松平共ニ」と注記される内山村の一冊が含まれ、村位は下。慶長豊後国絵図では内山村とあり、高一千五一〇石余。慶長一一年の惣御高頭御帳では高一六八石余、門田組に属した。この高には松谷まつだに村分が含まれるとみられる。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高三六石余・出来高六七石余、田方七三石余・畑方三〇石余、柴山などありと注記される。


内山村
うちやまむら

[現在地名]小矢部市内山

五郎丸ごろまる村の西、礪波山となみやま丘陵の山間部、五郎丸川上流に位置。松根まつね峠越で加賀国河北かほく郡松根村(現石川県金沢市)へ出る小原おはら道が通る。松根峠の北の内山峠越の道も利用された。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数一九、高木組に属する。正保郷帳では高三九一石余、田方一二町一反余・畑方一四町。


内山村
うちやまむら

[現在地名]珠洲市若山町宇都山わかやままちうつやま 内山うちやま

延武のぷたけ村の北西に位置し、北の大谷おおたに峠に近い通伝とおでん延武村国兼くにかね村の入会地である五郎丸ごろうまるの垣内がある。延武三箇のぶたけさんがの一。正保郷帳に村名がみえ、高四二石余、田二町四反余・畑三反余。承応三年(一六五四)能登奥両郡収納帳では草高四四石余、免三ツ二歩、夫銀二〇匁余。


内山村
うちやまむら

[現在地名]砥用町清水きよみず 内山

桑木野くわぎの村の西隣にある。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高七三石五斗余、うち田方九石一斗余・畠方六四石三斗余。砥用手永に属し、「国誌」に「久立村トコロノホ村等ノ小村アリ」と記す。また同書には万福まんぷく寺跡があり、「台宗ノ古迹(中略)本尊薬師仏ノミ一草堂ニ残レリ、里俗薬師堂ト云」とみえる。


内山村
うちやまむら

[現在地名]相生町内山

西納にしなう村の北方山間にあり、紅葉もみじ川に注ぐ小流が流れる。江戸時代末期までは西納村の枝村で(阿波志)、国絵図・郷帳類にはみえない。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)には村名がみえ、人数三四(男一一・女二三)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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