蓮池城跡(読み)はすいけじようあと

日本歴史地名大系 「蓮池城跡」の解説

蓮池城跡
はすいけじようあと

[現在地名]土佐市蓮池

高岡たかおか町市街地西部の標高四五・六メートルの小丘にあり、北麓を国道五六号が通る。初め大平氏の本城でのちに一条氏・長宗我部氏の支城となった。「土佐州郡志」は「相伝昔大平山城守者之居城也、後幡多一条殿居于此、後又吉良左京進攻取入居之、方三町余隍塁蹟今成田畝、今尚有本丸・二之壇・三之壇等名」とし、城域に妙蓮寺・大光坊・地蔵院などがあったと伝える。

築城年代は不明。土佐へ配流されていた源頼朝の弟希義を討った土佐の武士に蓮池権守家綱がおり、彼は平重盛家人でのちに頼朝に誅伐された(吾妻鏡)。また建武三年(一三三六)三月二二日付の佐伯経貞軍忠状(蠧簡集拾遺)堅田津野・三宮ら郡下の武家方諸将が、一宮いつく大高坂おおだかさ(現高知市)方面の合戦に参加するに際し、まず「馳参高岡館令着到」とみえ、高岡付近に武家方の有力拠点のあったことがわかるが、いずれも蓮池城・大平氏との関係は明らかでない。

大平氏は鎌倉初期の讃岐の守護近藤七国平の末と思われ、南北朝期より台頭、蓮池庄を本拠に守護代クラスの国人に成長した。


蓮池城跡
はすのいけじようあと

[現在地名]佐賀市蓮池町大字蓮池

もと小田氏の居城で応永年間(一三九四―一四二八)小田直光の築城。天文二二年(一五五三)竜造寺隆信がこれを攻めて下し、永禄一一年(一五六八)には隆信の弟長信を城に入れて小田氏を多久たくに移した。のち小田鎮光が滅ぼされると、竜造寺家晴が入城した。

天正一二年(一五八四)隆信が戦死後、鍋島直茂も一時駐屯し、嫡子の勝茂も江上家種の養子としてここに住んだ。慶長絵図に佐賀城に相当する「竜造寺城」とともに「蓮池城」が明記されている。当時二つの城が存在したわけで、勝茂の子の元茂(小城支藩祖)も慶長七年(一六〇二)蓮池城で生れた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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