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蔡鍔 さいがく Cai E; Ts`ai Ê

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蔡鍔
さいがく
Cai E; Ts`ai Ê

[生]光緒8(1882)
[没]1916. 福岡
中国,清末新軍の将軍で,雲南護法運動立役者。字は松坡。湖南省邵陽県の人。時務学堂に学び,日本の士官学校に留学。帰国後,雲南歩隊の協領 (旅団長) となり,辛亥革命には武昌蜂起に呼応して新軍を率い,全雲南を平定。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

蔡鍔 さい-がく

1882-1916 清(しん)(中国)の軍人,政治家。
光緒8年11月9日生まれ。湖南省の人。梁啓超(りょう-けいちょう)にまなぶ。日本の陸軍士官学校に留学し,帰国後,雲南で新軍を養成。1911年辛亥(しんがい)革命にくわわり雲南都督。袁世凱(えん-せいがい)の帝制復活運動に反対した。結核治療のため来日し,大正5年11月8日福岡で客死。35歳。字(あざな)は松坡(しょうは)。

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世界大百科事典 第2版の解説

さいがく【蔡鍔 Cài È】

1882‐1916
現代中国の軍人,政治家。字は松坡(しようは),湖南省邵陽県の人。1898年(光緒24),湖南時務学堂に入り梁啓超らについて革新的思想を学び,戊戌政変の後,日本に来て横浜の東京大同高等学校で学ぶ。1900年唐才常の自立軍起義に参加し,失敗すると日本に亡命し,陸軍士官学校に入って近代的軍事を学んだ。帰国後新軍の訓練にあたり,11年の辛亥革命には雲南の新軍を率いて呼応し,雲南軍政府都督となった。第二革命では雲南独立を宣言し,護国軍を組織して袁世凱の帝制復活に反対した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蔡鍔
さいがく / ツァイオー
(1882―1916)

中国の軍人。字(あざな)は松坡(しょうは)。湖南(こなん/フーナン)省邵陽(しょうよう/シャオヤン)県の人。長沙(ちょうさ/チャンシャー)の時務学堂に入り、梁啓超(りょうけいちょう/リヤンチーチャオ)に学ぶ。のち日本の士官学校に留学。1904年帰国し、各地の新軍の訓練にあたる。ついで1911年、雲南(うんなん/ユンナン)陸軍第三七協(旅団)協統となる。1911年10月、武昌(ぶしょう/ウーチャン)での革命勃発(ぼっぱつ)に呼応し新軍を率いて蜂起(ほうき)、雲南を抑え都督に就任。1913年、袁世凱(えんせいがい)に危険視され、北京(ペキン)に召還される。1915年、袁の帝制の動きに反対し、旧師梁啓超と計って北京を脱出。雲南に戻り護国軍を組織し、第三革命を起こした。四川(しせん/スーチョワン)省南部で転戦する間、反袁の動きは広がり、袁世凱の帝制運動を失敗に導いた。その後、結核が悪化、治療のため日本に渡ったが福岡で客死した。『蔡松坡先生遺集』の遺稿集がある。[倉橋正直]

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