中国の軍人。字(あざな)は松坡(しょうは)。湖南(こなん/フーナン)省邵陽(しょうよう/シャオヤン)県の人。長沙(ちょうさ/チャンシャー)の時務学堂に入り、梁啓超(りょうけいちょう/リヤンチーチャオ)に学ぶ。のち日本の士官学校に留学。1904年帰国し、各地の新軍の訓練にあたる。ついで1911年、雲南(うんなん/ユンナン)陸軍第三七協(旅団)協統となる。1911年10月、武昌(ぶしょう/ウーチャン)での革命勃発(ぼっぱつ)に呼応し新軍を率いて蜂起(ほうき)、雲南を抑え都督に就任。1913年、袁世凱(えんせいがい)に危険視され、北京(ペキン)に召還される。1915年、袁の帝制の動きに反対し、旧師梁啓超と計って北京を脱出。雲南に戻り護国軍を組織し、第三革命を起こした。四川(しせん/スーチョワン)省南部で転戦する間、反袁の動きは広がり、袁世凱の帝制運動を失敗に導いた。その後、結核が悪化、治療のため日本に渡ったが福岡で客死した。『蔡松坡先生遺集』の遺稿集がある。
[倉橋正直]
現代中国の軍人,政治家。字は松坡(しようは),湖南省邵陽県の人。1898年(光緒24),湖南時務学堂に入り梁啓超らについて革新的思想を学び,戊戌政変の後,日本に来て横浜の東京大同高等学校で学ぶ。1900年唐才常の自立軍起義に参加し,失敗すると日本に亡命し,陸軍士官学校に入って近代的軍事を学んだ。帰国後新軍の訓練にあたり,11年の辛亥革命には雲南の新軍を率いて呼応し,雲南軍政府都督となった。第二革命では雲南独立を宣言し,護国軍を組織して袁世凱の帝制復活に反対した。16年治療のため来日,九州大学病院で病死。《蔡松坡先生遺集》(1962)がある。
執筆者:坂出 祥伸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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