薛延陀(読み)せつえんだ(その他表記)Xue-yan-tuo; Hsüeh-yen-t`o

山川 世界史小辞典 改訂新版 「薛延陀」の解説

薛延陀(せつえんだ)
Xueyantuo

鉄勒(てつろく)の有力な一部族。その主流はアルタイ山脈西南西突厥(にしとっけつ)(突厥)に服していたが,ほかの鉄勒諸部族とともに反乱を起こして独立した(605年)。約10年後,再び西突厥に服属したが,モンゴル高原北部の鉄勒が東突厥に反乱を起こすと,薛延陀は東方へ移動してこれに合流し,唐軍と協力して東突厥を一時瓦解させた(630年)。その族長夷男(いなん)は唐から可汗(カガン)に冊立され,モンゴル高原の鉄勒諸部族はこの支配下に入った。夷男の死後,唐の分裂政策が奏功して衰え,唐の攻撃を受けて滅びた(646年)。その遺民もまもなく討滅され,史上から姿を消した。トラ川北岸にあるウンゲトゥ遺跡を夷男の墓廟とする説もあるが,まだ不明。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「薛延陀」の意味・わかりやすい解説

薛延陀
せつえんだ
Xue-yan-tuo; Hsüeh-yen-t`o

チュルク (→鉄勒 ) 諸部族の一つ。6世紀末にはアルタイ山脈の南西にいて西突厥 (→突厥 ) に支配されていたが,605年に他のチュルク諸部族とともに反乱を起して独立。しかし約 10年後,再び東西両突厥に分属した。 627年モンゴル高原北部の鉄勒諸部族が東突厥に対して反乱を起すと,セレンガ川方面へ移動してこれに合流し,その部長夷男 (いなん) は可汗に推戴され,唐軍と協力して東突厥国家を崩壊させ (630) ,モンゴル高原を支配した。しかし,夷男の死後,唐の分裂政策のため支配下の諸族が離反し,唐軍の征討を受けて滅びた (646) 。突厥碑文にみえるシルとタルドゥシュとの混合部族で,薛延陀はシル=タルドゥシュの音写であるという説は誤りである。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「薛延陀」の意味・わかりやすい解説

薛延陀
せつえんだ

中国北辺に居住していた鉄勒(てつろく)(トルコ)の一部族。隋(ずい)代にアルタイ山脈の南西に拠(よ)り西突厥(にしとっけつ)に属していたが、605年、他の鉄勒諸部族とともに反乱を起こして独立した。約10年後、ふたたび強盛になった西突厥に服属したが、627年、部長の夷男(いだん)は部衆を率いてセレンガ川方面に移って、ウイグルと結んで東突厥の北辺に侵入した。630年、唐軍と協力して東突厥を瓦解(がかい)させ、モンゴル高原を支配した。しかし夷男の死後、分裂して国勢が衰え、646年、唐軍の討伐を受けて滅亡した。その際、支配下の鉄勒諸部族は唐の間接羈縻(きび))支配を受けた。

[護 雅夫]

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旺文社世界史事典 三訂版 「薛延陀」の解説

薛延陀
せつえんだ
Hsüeh-yen-t‘o

6〜7世紀の間,モンゴルに拠ったトルコ系遊牧民族
6世紀末に西突厥 (とつけつ) に属し,7世紀初め反乱を起こして10年間アルタイ方面の統治権掌握。627年唐と呼応して東突厥を打倒し,約20年間モンゴルの統治権を保持。のち唐の辺境に侵入し,646年唐将李勣 (りせき) に敗れて崩壊した。

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世界大百科事典(旧版)内の薛延陀の言及

【鉄勒】より

…彼らの中から突厥(とつくつ)を建国した阿史那氏も出た。突厥時代の鉄勒諸部の中では薛延陀(せつえんだ)が有力で,630年には唐と共に突厥を滅ぼしたが,やがて唐の羈縻(きび)支配をうけた。また中国史料では,主要な9部族をさし,〈九姓鉄勒〉と呼んだ。…

※「薛延陀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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