藤原頼嗣(読み)ふじわらのよりつぐ

改訂新版 世界大百科事典 「藤原頼嗣」の意味・わかりやすい解説

藤原頼嗣 (ふじわらのよりつぐ)
生没年:1239-56(延応1-康元1)

鎌倉幕府の第5代将軍。将軍藤原頼経の子。1244年(寛元2)父の譲りにより将軍となる。46年父頼経は陰謀に関係して京都に追われ,祖父の前摂政九条道家も失脚した。51年(建長3)僧了行の幕府転覆の陰謀に九条家が関係しているとの嫌疑が生まれ,翌年後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が将軍として鎌倉下り,頼嗣は京都に追われた。こうして摂家(せつけ)将軍は終わり,親王将軍が登場した。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原頼嗣」の解説

藤原頼嗣

没年:康元1.9.25(1256.10.14)
生年:延応1.11.21(1239.12.17)
鎌倉幕府の第5代将軍。藤原頼経と藤原親能の娘・大宮殿の子。寛元2(1244)年に,執権北条経時強制により,父・頼経から,わずか6歳にして将軍職を譲られた。頼経が同4年に京都へ追放されたのちも,将軍として鎌倉にとどまるが,建長3(1251)年に了行法師らの謀反事件に頼経が関係した疑いが持たれ,これにかこつけた形で頼嗣も翌建長4年に京都へ追放された。幼少の身で幕府の主導権争いに巻き込まれた一生であった。<参考文献>上横手雅敬『鎌倉時代政治史研究』

(高橋慎一朗)

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百科事典マイペディア 「藤原頼嗣」の意味・わかりやすい解説

藤原頼嗣【ふじわらのよりつぐ】

鎌倉幕府5代将軍。父藤原頼経を継いで1244年将軍となるが,1252年廃されて帰京,父子2代の摂家(せっけ)将軍は終わった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原頼嗣」の解説

藤原頼嗣
ふじわらのよりつぐ

1239.11.21~56.9.25

鎌倉幕府5代将軍(在職1244.4.28~51.12)。父は4代将軍藤原頼経。母は藤原親能の女。1244年(寛元2)父にかわって将軍となる。幼少の将軍で,実権はほとんど北条氏ににぎられていた。51年(建長3)幕府への謀反事件が発覚し,父頼経の関与が疑われて将軍の地位を追われ,翌年京都に追放となる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原頼嗣」の解説

藤原頼嗣
ふじわらのよりつぐ

1239〜56
鎌倉幕府5代将軍(在職1244〜52)
父頼経のあとに鎌倉へ送られた藤原(摂家)将軍。のちに執権北条時頼に廃され,皇族(親王)将軍として宗尊 (むねたか) 親王が迎えられるに及び,帰京。不遇のうちに死んだ。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原頼嗣」の解説

藤原頼嗣 ふじわらの-よりつぐ

九条頼嗣(くじょう-よりつぐ)

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367日誕生日大事典 「藤原頼嗣」の解説

藤原頼嗣 (ふじわらのよりつぐ)

生年月日:1239年11月21日
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第5代の将軍
1256年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原頼嗣」の意味・わかりやすい解説

藤原頼嗣
ふじわらのよりつぐ

九条頼嗣」のページをご覧ください。

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