藤原頼経(読み)ふじわらのよりつね

百科事典マイペディアの解説

藤原頼経【ふじわらのよりつね】

鎌倉幕府4代将軍摂政九条道家の子。源実朝暗殺後,源頼朝の遠縁にあたる頼経がわずか2歳で鎌倉に迎えられ,1226年将軍となる。その後執権北条氏に疎まれ,1244年子藤原頼嗣へ将軍職を譲渡して出家。1246年には反得宗(とくそう)派の反乱事件(宮騒動)に関連して京都に追われた。
→関連項目鎌倉大番役

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのよりつね【藤原頼経】

1218‐56(建保6‐康元1)
鎌倉幕府の第4代将軍。摂政九条道家の子。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。公経の妻全子,すなわち頼経の外祖母は源頼朝の姪。幼名三寅。1219年(承久1)3代将軍源実朝が殺され,源氏の正統が絶えたため,頼朝の遠縁にあたる頼経が鎌倉に迎えられた。25年(嘉禄1)元服,翌年征夷大将軍に任ぜられ(摂家(せつけ)将軍),30年(寛喜2)源頼家の娘竹御所を妻とした。頼経が長く鎌倉にとどまり,御家人(ごけにん)とも親密となり,執権勢力に対抗するようになると,これを恐れた執権北条経時は,44年(寛元2)頼経に迫って将軍職を子の頼嗣に譲らせた。

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367日誕生日大事典の解説

藤原頼経 (ふじわらのよりつね)

生年月日:1218年1月16日
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第4代の将軍
1256年没

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精選版 日本国語大辞典の解説

ふじわら‐の‐よりつね【藤原頼経】

鎌倉幕府第四代将軍。摂政九条道家の子。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。頼朝の遠縁にあたるため二歳で鎌倉の主として迎えられ、嘉祿二年(一二二六)将軍宣下。幕府の実権を握っていた執権北条経時に強要され、二八歳で子頼嗣に将軍職を譲渡。のち建長三年(一二五一)、僧了行の幕府顛覆事件に連座、以後不遇であった。九条頼経。建保六~康元元年(一二一八‐五六

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世界大百科事典内の藤原頼経の言及

【宝治合戦】より

…三浦氏の乱ともいう。鎌倉将軍藤原頼経は在職が長期にわたるにつれ御家人との結びつきが深まってその権勢が強まり,執権の権勢が不安定になることを北条氏に警戒されて更迭されたが,その後も鎌倉にとどまって〈大殿〉と称され,前将軍として勢力を保持していた。1246年(寛元4)北条氏の支流名越光時は,千葉秀胤らを誘い,頼経を擁して北条時頼を除き執権の地位を奪おうと図ったが,事前に発覚して追放され,頼経は京都に送還された。…

【北条経時】より

…翌年正五位下,武蔵守となる。当時,将軍藤原頼経は鎌倉下向以来長い年月を経ており,将軍を中心とする反得宗派の動きは活発であった。経時は44年将軍を更迭,頼経の子頼嗣(6歳)を新将軍とし,翌年妹檜皮姫を頼嗣室とした。…

※「藤原頼経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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