藤原頼経(読み)フジワラノヨリツネ

デジタル大辞泉 「藤原頼経」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐よりつね〔ふぢはら‐〕【藤原頼経】

九条頼経くじょうよりつね

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精選版 日本国語大辞典 「藤原頼経」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐よりつね【藤原頼経】

  1. 鎌倉幕府第四代将軍摂政九条道家の子。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。頼朝の遠縁にあたるため二歳で鎌倉の主として迎えられ、嘉祿二年(一二二六将軍宣下。幕府の実権を握っていた執権北条経時に強要され、二八歳で子頼嗣に将軍職譲渡。のち建長三年(一二五一)、僧了行の幕府顛覆事件に連座以後不遇であった。九条頼経建保六~康元元年一二一八‐五六

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百科事典マイペディア 「藤原頼経」の意味・わかりやすい解説

藤原頼経【ふじわらのよりつね】

鎌倉幕府4代将軍摂政九条道家の子。源実朝暗殺後,源頼朝の遠縁にあたる頼経がわずか2歳で鎌倉に迎えられ,1226年将軍となる。その後執権北条氏に疎まれ,1244年子藤原頼嗣へ将軍職を譲渡して出家。1246年には反得宗(とくそう)派の反乱事件(宮騒動)に関連して京都に追われた。
→関連項目鎌倉大番役

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原頼経」の意味・わかりやすい解説

藤原頼経 (ふじわらのよりつね)
生没年:1218-56(建保6-康元1)

鎌倉幕府の第4代将軍。摂政九条道家の子。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。公経の妻全子,すなわち頼経の外祖母は源頼朝の姪。幼名三寅。1219年(承久1)3代将軍源実朝が殺され,源氏正統が絶えたため,頼朝の遠縁にあたる頼経が鎌倉に迎えられた。25年(嘉禄1)元服,翌年征夷大将軍に任ぜられ(摂家(せつけ)将軍),30年(寛喜2)源頼家の娘竹御所を妻とした。頼経が長く鎌倉にとどまり,御家人(ごけにん)とも親密となり,執権勢力に対抗するようになると,これを恐れた執権北条経時は,44年(寛元2)頼経に迫って将軍職を子の頼嗣に譲らせた。頼経は翌年出家したが,なお声望を保ち,46年北条一族の名越光時が執権の地位を奪おうとした事件(宮騒動(みやそうどう))に関係して京都に追われた。この事件によって頼経の父道家も失脚し,三浦光村が頼経の寵臣であったことから,翌47年(宝治1)三浦氏も滅ぼされた(宝治合戦)。僧了行の幕府転覆の陰謀によって,52年(建長4)には頼嗣も鎌倉を追われ,九条一族が勅勘をこうむった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原頼経」の解説

藤原頼経
ふじわらのよりつね

1218.1.16~56.8.11

鎌倉幕府4代将軍(在職1226.1.27~44.4.28)。父は九条道家。母は西園寺公経(きんつね)の女。寅の年,寅の月,寅の刻に生まれたので,幼名は三寅(みとら)といった。3代将軍源実朝の横死後,幕府に将軍予定者として迎えられ,1219年(承久元)鎌倉へ赴いた。25年(嘉禄元)北条政子が死去したことから元服し,翌年正式に将軍となった。成長にしたがい将軍権力の伸長をはかるようになったため,44年(寛元2)執権北条経時に将軍職を子の頼嗣へ譲らされた。翌年出家。以後も大殿(おおとの)とよばれて一勢力を保ったが,46年幕府への謀反事件に関連したとして,執権北条時頼により京都に追放された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原頼経」の解説

藤原頼経(1) ふじわらの-よりつね

?-1217* 平安後期-鎌倉時代の官吏。
藤原頼輔の子。従四位下。豊後守(ぶんごのかみ),刑部卿となる。源義経としたしかったため,源頼朝により文治(ぶんじ)元年(1185)安房(あわ)に,5年伊豆(いず)に配流された。建保(けんぽ)4年12月2日死去。

藤原頼経(2) ふじわらの-よりつね

九条頼経(くじょう-よりつね)

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原頼経」の解説

藤原頼経
ふじわらのよりつね

1218〜56
鎌倉幕府4代将軍(在職1226〜44)
関白道家の子。母は西園寺公経 (きんつね) の娘。3代将軍源実朝暗殺後,頼朝の遠縁として幕府の求めにより鎌倉へ送られた藤原(摂家)将軍。執権北条氏の権勢のもとでの形式上の将軍にすぎず,長じて職を子頼嗣に譲って出家。不遇のうちに死んだ。

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367日誕生日大事典 「藤原頼経」の解説

藤原頼経 (ふじわらのよりつね)

生年月日:1218年1月16日
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第4代の将軍
1256年没

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原頼経」の意味・わかりやすい解説

藤原頼経
ふじわらのよりつね

九条頼経

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原頼経」の意味・わかりやすい解説

藤原頼経
ふじわらのよりつね

九条頼経」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原頼経の言及

【宝治合戦】より

…三浦氏の乱ともいう。鎌倉将軍藤原頼経は在職が長期にわたるにつれ御家人との結びつきが深まってその権勢が強まり,執権の権勢が不安定になることを北条氏に警戒されて更迭されたが,その後も鎌倉にとどまって〈大殿〉と称され,前将軍として勢力を保持していた。1246年(寛元4)北条氏の支流名越光時は,千葉秀胤らを誘い,頼経を擁して北条時頼を除き執権の地位を奪おうと図ったが,事前に発覚して追放され,頼経は京都に送還された。…

【北条経時】より

…翌年正五位下,武蔵守となる。当時,将軍藤原頼経は鎌倉下向以来長い年月を経ており,将軍を中心とする反得宗派の動きは活発であった。経時は44年将軍を更迭,頼経の子頼嗣(6歳)を新将軍とし,翌年妹檜皮姫を頼嗣室とした。…

※「藤原頼経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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