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川上哲治 かわかみ てつはる

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美術人名辞典の解説

川上哲治

プロ野球選手・監督。大正9年(1920)熊本県生。「打撃の神様」といわれ、その背番号16番は永久欠番となる。巨人の監督時代は14年間に日本一を11回達成した。

出典|(株)思文閣
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デジタル大辞泉の解説

かわかみ‐てつじ〔かはかみテツヂ〕【川上哲治】

かわかみてつはる(川上哲治)

かわかみ‐てつはる〔かはかみ‐〕【川上哲治】

[1920~2013]プロ野球選手・監督。熊本の生まれ。昭和13年(1938)巨人入団、翌年には首位打者となる。昭和31年(1956)には2000本安打選手の第1号となった。赤いバットを使用したことから「赤バット」と呼ばれて活躍。「ボールが止まって見える」の名言を残し、「打撃の神様」と称された。引退後、巨人の監督に就任し、チームを9年連続の日本一に導いた。

出典|小学館
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百科事典マイペディアの解説

川上哲治【かわかみてつはる】

プロ野球選手。熊本県生れ。熊本工卒業後,1938年―1958年読売ジャイアンツで活躍。首位打者5回,本塁打王2回,最高殊勲選手3回。通算打率3割1分3厘,2351安打。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

川上哲治 かわかみ-てつはる

1920-2013 昭和時代のプロ野球選手,監督。
大正9年3月23日生まれ。熊本工業時代は投手として3度甲子園に出場。昭和13年巨人に入団。一塁手に転じ,14年首位打者。戦後,赤バットを使用し,青バットの大下弘とならび称された。実働18年,3割13回,首位打者5回,本塁打王2回,打点王3回,通算2351安打,3割1分3厘,181本塁打。36-49年巨人監督をつとめ,40年からの9連覇をふくめ,11回日本一。40年野球殿堂入り。平成4年文化功労者。平成25年10月28日死去。93歳。熊本県出身。

出典|講談社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

川上哲治
かわかみてつはる

[生]1920.3.23. 熊本
[没]2013.10.28. 東京,稲城
プロ野球選手,監督。熊本県立工業学校在学中に全国中等学校優勝野球大会(→全国高等学校野球選手権大会)に春夏 3回出場し,1934,1937年に準優勝を果たした。1938年東京巨人軍(のちの東京読売巨人軍〈読売ジャイアンツ〉)に投手として入団したが,一塁手に転向した。太平洋戦争を挟んで戦前・戦後のプロ野球界で活躍し,1956年に日本球界初の 2000本安打を達成した。1958年に現役を引退するまで最高殊勲選手 3回,首位打者 5回,打点王 3回,本塁打王 2回。通算 18年で 1979試合に出場,2351安打,181本塁打,1319打点,打率 3割1分3厘。「打撃の神様」と称された。1961年巨人軍監督に就任,1974年に退任した。その間,セントラルリーグリーグ優勝 11回,日本一 11回。1965年以降日本シリーズ 9連覇の実績を上げた。引退後,解説者となるとともに,少年野球の指導にも携わった。1965年野球殿堂入り。1992年文化功労者に選ばれ,勲四等旭日小綬章を授与された。(→プロ野球

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世界大百科事典内の川上哲治の言及

【野球】より

…45年1月1日から5日間,計8500人の観衆を集めて甲子園球場で行われた在阪4球団の試合を最後にプロ野球は中止となったが,敗戦直後の45年11月23日には神宮球場で東西対抗が行われ,再建の第一歩を印した。この試合でデビューした青バットの大下弘は,赤バットの川上哲治とならんでホームランのヒーローとなった。戦時中の日本野球報国会が日本野球連盟として再発足し,翌46年にはペナントレースが復活した。…

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