日本歴史地名大系 「藤森村」の解説 藤森村ふじもりむら 岡山県:真庭郡湯原町藤森村[現在地名]湯原町藤森藤森川上流域の本流と支流の山田(やまだ)谷・中山(なかやま)谷の流域に谷間集落が散在する。西は粟谷(あわだに)村、東は黒杭(くろくい)村。正保郷帳によれば田高九一石余・畑高七九石余、元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高四三石余・開高四石余、元禄初頭の家数三六・人数一八四(作陽誌)。領主の交替は仲間(なかま)村に同じ。江戸時代、出雲往来の宿駅で、上徳山(かみとくやま)宿(現川上村、問屋場は延助)へ一里二町、釘貫小川(くぎぬきこがわ)宿へ三里(作陽誌)。釘貫小川宿から土居(どい)村・羽部(はぶ)村を経てホウソ坂、種(たね)村の立石(たていし)を通り、中山で当村へ入る。当地からは藤森川をさかのぼり、鳥居峠(とりいがだわ)を越え、西茅部(にしかやべ)村(現川上村)の郷原(ごうばら)を通って延助(のぶすけ)へ通じていた。字宮の山(みやのやま)に鎮座する建部(たけべ)神社(祭神日本武尊)は、元和二年(一六一六)火災に遭ったため由緒は不詳であるが、建部郷の一宮で、かつては大宮大明神と称した。 藤森村ふじもりむら 愛知県:名古屋市名東区藤森村[現在地名]名東区猪高(いたか)町藤森・明が丘(あけがおか)・朝日が丘(あさひがおか)・小池(こいけ)町・宝が丘(たからがおか)・望が丘(のぞみがおか)・藤が丘(ふじがおか)・藤香(ふじか)町・藤里(ふじさと)町・藤見が丘(ふじみがおか)・石が根(いしがね)町・照が丘(てるがおか)・藤森・本郷(ほんごう)・富が丘(とみがおか)・豊が丘(ゆたかがおか)北を香流(かなれ)川に区切られ、東を長久手(ながくて)村(現愛知郡長久手町)、南を上社(かみやしろ)村、西を猪子石(いのこし)村に接する。織田信雄分限帳に、山本又十郎の所領として、一千九二五貫のうちヤシロ(上社付近)と並んで「二百九十貫 フチモリ」と記されている。寛文一一年(一六七一)の家数五〇、人数三一五(寛文覚書)。「徇行記」によれば、八石余の新田を加えた六七二石のうち三六四石余が藩士六人の給知。 藤森村ふじのもりむら 富山県:小矢部市藤森村[現在地名]小矢部市藤森平桜(ひらざくら)村の東、本堂(ほんどう)川右岸に位置。集落は小原(おはら)道沿いにある。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数一四、高木組に属する。正保郷帳では高五〇〇石余、田方三二町一反余・畑方一町二反、新田高四九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五七六石・免四ツ七歩、小物成は山役三一匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。所属組は棚田(たなだ)村に同じ。天保一四年(一八四三)には村高のうち九六石余が今石動(いまいするぎ)町商人土谷屋ほかの持高であった(「御縮高根帳」杉野家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by