行智(読み)ぎょうち

改訂新版 世界大百科事典 「行智」の意味・わかりやすい解説

行智 (ぎょうち)
生没年:1778-1841(安永7-天保12)

修験道当山派山伏で,修験道の歴史や故実,並びに悉曇(しつたん)(梵学)に明るい学者として知られる。俗姓を松沼といい,字を慧日,阿光房と称した。江戸浅草福井町の銀杏八幡宮別当覚吽院(かくうんいん)に住み,祖父行春と父の行弁に就いて内典(ないてん)・外典(げてん)の学を修めたが,とくに悉曇にすぐれ,また冷泉流の歌道を学び,持明院基時に就いて書道を習うなど,修験者には珍しく博識多芸であった。平田篤胤は彼から悉曇を学んでいる。父の後を継いで覚吽院の住持となり,やがて当山派の総学頭,法印大僧都に任ぜられ,同派中で重きをなした。修験や悉曇に関する数多くの著作を残したが,その中で《木葉衣(このはごろも)》2巻(1832)と《踏雲録事(とううんろくじ)》1巻(1836)の2著は,江戸末期の修験道衰退の現状を顧みて,これを復興しようとする意図のもとに,修験道の来歴,故事伝承をつづったものとして注目される。1841年3月,覚吽院で没した。
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朝日日本歴史人物事典 「行智」の解説

行智

没年天保12.3.13(1841.5.3)
生年:安永7(1778)
江戸後期の山伏,修験道の教学者,悉曇(梵学)学者。俗称を松沼,字を慧日,阿光房と称した。父の行弁のあとを継いで,江戸浅草福井町の銀杏八幡宮の覚吽院を住持した。祖父の 行春 と父について内外の典籍を学び,冷泉家歌道,書道によく通じ,特に悉曇学にすぐれ,平田篤胤に教授した。真言宗系修験道の当山派の惣学頭,法印大僧都に任じられる。修験道の信仰や修行が衰退したため,復興しようとする意図のもとに,修験道の来歴・故事伝承・教学に関する著作を多く著して,今日に伝えている。<著作>『木葉衣』『鈴懸衣』『踏雲録事』

(川村邦光)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「行智」の解説

行智(2) ぎょうち

1778-1841 江戸時代後期の僧。
安永7年生まれ。悉曇(しったん)(梵(ぼん)学)と修験(しゅげん)の教学にすぐれる。修験宗当山派の江戸浅草覚吽(かくうん)院の住職。当山派総学頭,法印大僧都(そうず)に任じられた。天保(てんぽう)12年3月13日死去。64歳。俗姓は松沼。字(あざな)は慧日。号は円明院,阿光房。著作に「木葉衣(このはごろも)」「踏雲録事」など。

行智(1) ぎょうち

?-? 平安時代後期の僧,絵師
藤原隆能(たかよし)の次男。比叡山(ひえいざん)延暦(えんりゃく)寺の僧となったが,絵の才能をみとめられ,父とおなじく絵所預(えどころあずかり)に任じられた。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の行智の言及

【子守歌】より

…さらに伝統的な民謡の一種としての子守歌と,新たに創作されたものとがあるが,ここでは前者を中心に述べる。 日本では江戸時代の子守歌に,(1)〈寝させ歌〉(ねんねのおもりはどこへいた……),(2)〈目さめ歌〉(お月さま幾つ……),(3)〈遊ばせ歌〉(うさぎうさぎ,なにょ見てはねる……)の3種が数えられていた(行智《童謡集》1820ころ)。今日子守歌は一般に〈眠らせ歌〉と〈遊ばせ歌〉に二大別され,後者の中に〈目さめ歌〉や〈まじない歌〉が含められる。…

※「行智」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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