ボン(英語表記)Bonn

翻訳|Bonn

デジタル大辞泉 「ボン」の意味・読み・例文・類語

ボン(Bonn)

ドイツ西部、ノルトライン‐ウェストファーレン州の都市。ライン川中流にある。12世紀から選帝侯ケルン大司教の居住地。ポッペルスドルフ城ボン大学ベートーベンの生家がある。1949~1990年は西ドイツの首都。人口、行政区32万(2010)。

ボン(〈フランス〉bon)

多く複合語の形で用い、よい、うまい、などの意を表す。「ボンサンス」「ボンボワイヤージュ」

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精選版 日本国語大辞典 「ボン」の意味・読み・例文・類語

ぼん

  1. 〘 副詞 〙 ( 多く「と」を伴って用いる )
  2. 何かにはまっている小さい物がすっぽりと抜ける音、また、そのさまを表わす語。
    1. [初出の実例]「ぼんとぬけたる池の蓮の実 咲花にかき出す椽のかたぶきて〈芭蕉〉」(出典:俳諧・去来抄(1702‐04)先師評)
  3. 鉄砲を発射する音、何かが爆発したり燃え上がったりする音を表わす語。「ぽん」より大きく重い感じを表わす。
  4. 時を告げる鐘や、柱時計の音などを表わす語。
    1. [初出の実例]「今朝六つがボンと鳴る」(出典:滑稽本・浮世床(1813‐23)初)

ボン

  1. ( Bonn ) ドイツの都市。ライン川下流の左岸にある。ローマ帝国の砦から発展し、一三~一八世紀にはケルン大司教の居住地であった。一九四九年ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立するとともにその首都となった。ドイツ統一後の一九九一年、ボンに首都機能の一部を残して近い将来ベルリンへ遷都することを決定、九九年にベルリンがドイツの首都となった。

ボン

  1. 〘 名詞 〙 ( [フランス語] bon ) 多く複合語の形で用い、よい、うまい、などの意を表わす。「ボンサンス」「ボンボヤージュ

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改訂新版 世界大百科事典 「ボン」の意味・わかりやすい解説

ボン
Bonn

ドイツ西部,ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。人口31万1938(2004)。ライン川が市を縦貫し,市域の4分の3はその左岸が占める。ドイツ分割後に西ドイツの首都となり,1969年旧ボン市はバート・ゴーデスベルクBad Godesberg市,ボイエルほか8村を合併し,大ボン市となったが,90年10月のドイツ再統一にあたって首都の座をベルリンにゆずった。ドイツ分割の結果によってつくられた政治都市・管理都市であり,産業・商業都市の機能は小さい。ボン大学(正称ライニッシェ・フリードリヒ・ウィルヘルム大学Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität)はドイツの古い大学の一つで,現在の本館は歴代のケルン大司教(選帝侯)の居城である。建物の基礎はすでに16世紀にさかのぼり,後に選帝侯ヨーゼフ・クレメンス(1688-1723)によって増築されている。ギムナジウムを経て1786年選帝侯マックス・フランツによって総合大学に昇格。1818年にはプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム3世が再建,今日のもとをつくった。その他ベートーベンの生家とその像が立つミュンスター広場,シューマンの家,マルクト広場,ライン川に面した連邦議会,29階建て(高さ114m)の連邦議員会館,大統領官邸ビラ・ハンマーシュミットVilla Hammerschmidt,ゴーデスブルク城など,見物に値するところも少なくない。

 古代ローマ軍団宿営地Bonna,Castra Bonnensiaであったが,410年ゲルマン人の一部族であるフランク族に占領され,彼らの軍事拠点となる。近世には歴代のケルン大司教の居城地として発展。1601年選帝侯フェルディナントはボンをその主都とした。1794年フランス革命軍が占領。1815年ウィーン会議の結果,ラインラントはプロイセン領になり,ボンは18年以降は大学都市としての性格を強める。第2次大戦により旧市街は全壊,その後復興した。1948年,ドイツ連邦共和国誕生の前年,憲法制定集会(議会協議会)はボンを暫定首都に選定,翌49年の連邦議会で承認された。ドイツ統一と首都ベルリンの再興が不可能になっていくなかで,ボンの暫定首都としての性格は薄れ,69年以降本格的な首都建設が始められるに至った。
執筆者:

市内には四つの中世の教会堂と二つのバロック期の教会堂があるが,そのうち歴史的に最も注目すべきは大聖堂(ミュンスター。正称ザンクト・マルティン)である。1150-1224年に造営された現在の大聖堂の基礎部には,ローマ時代末期にまでさかのぼる部分が残る。東側内陣と塔は12世紀のライン地方ロマネスク様式を示し,身廊はゴシック様式を告げている。形式的には袖廊(トランセプト)をもつバシリカであるが,東西それぞれに祭室と地下墓室,双塔とをおいた東西相称の配置をとる。内部装飾はおおむねバロック期のもので,中世の聖職者席とライヒレH.Reichleによる《聖女ヘレナ》(ブロンズ像,1600-10)が注目される。世俗建築では,ケルン大司教の居城(現,ボン大学本館),市庁舎,ポッペルスドルフ宮殿などが挙げられる。いずれもバロック・ロココ時代のもの。ライン地方博物館には先史時代からの遺品が並び,ことにローマ時代の発掘品がボンの歴史を語る。市立美術館は表現主義など19,20世紀の絵画,彫刻が中心。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボン」の意味・わかりやすい解説

ボン
ぼん
Bonn

ドイツ中西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。ライン川峡谷北口付近にある。人口30万8900(2002)。1990年のドイツ統一でベルリンがドイツの首都となるまでは、1949年からボンがドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の首都であった。旧市ボンはライン川左岸の低位段丘上に位置するが、1969年、南方のバート・ゴーデスベルクなど周辺町村を合併してライン川両岸に市域を拡大した。

 旧市には13世紀の司教座教会、当地で生まれたベートーベンの像があるミュンスター広場、1737年建設の市庁舎、その前のマルクト(市場)広場、ベートーベンの生家があり、南接してボン大学(ウィルヘルム・フリードリヒ大学。旧ケルン選帝侯の城館)が続く。ボン駅も旧市に接し、駅前が新しく整備されている。また、ライン河畔には遊歩道、ベートーベン・ホール、市立劇場がある。1949年に首都となってから、連邦議会、政府諸機関、大統領官邸、首相官邸、議員会館などの連邦政府地区が、旧市の南方ライン川左岸沿いに形成された。旧市の南西ポッペルスドルフにはバロック様式の城館があり、植物園や理科系の大学施設が集まる。この城館に至る大通り、ポッペルドルファーアレー沿いには高級住宅が並ぶ。バート・ゴーデスベルクは13世紀の古城を中心とする閑静な住宅地で、DAAD(ドイツ学術交流会)、連邦地誌研究所などの文化関係機関、各国の大使館・領事館などが多い。対岸には著名なジーベンゲビルゲ(七つの山々)が望まれる。

[小林 博]

歴史

古代ローマのティベリウス帝が設けた屯営のボンブルクは、民族移動期にフランク人に占領され、9世紀にノルマン人の攻撃を受けた。921年皇帝ハインリヒ1世はここでフランス王シャルル3世と平和を約した。一方、ローマ末期の殉教者の墓地からブルクが生まれ、その外側、屯営との間にできた市場集落が都市の核となり、ぶどう酒の取引や手工業が栄え、ユダヤ人やカオール人も定住した。12世紀以来ケルン大司教が都市領主となり、1244年に市壁を築いて都市法を承認した。ケルン選帝侯領の行政の中心で、中世末の人口は約5000。宗教改革を行ったが、17世紀に旧教に復帰、中立政策で三十年戦争を乗り切る。フランスの援助で要塞(ようさい)城壁を築いたため、反仏勢力に何度も占領された。フランス革命で選帝侯国は解体し、1798年フランス領に、1815年プロイセン領に編入された。1777年創立のボン大学は、アルントシュレーゲル、ニーブールらの力で解放戦争(1813~14)後の復興の精神的原動力となった。

[諸田 實]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボン」の意味・わかりやすい解説

ボン
Vonn, Lindsey

[生]1984.10.18. ミネソタ,セントポール
アメリカ合衆国のアルペンスキー選手。1999年,11~14歳を対象としたイタリアのトロフェオ・トポリノ競技会の回転で優勝し,国際競技の舞台で頭角を現す。2003年のジュニア世界選手権大会では滑降銀メダルを獲得,翌 2004年の全米選手権大会でも銀メダルに輝いた。2006年トリノ・オリンピック冬季競技大会ではメダルの有力候補と目されていたが,滑降の練習中に転倒しヘリコプタで病院に運ばれた。翌日けがをおして競技に参加し,メダルは逃したものの,勇気ある行動が人々に感銘を与えたとしてアメリカ合衆国オリンピック精神賞を受賞した。キャリア最高の年は 2007―08年シーズンに訪れ,ワールドカップで 6勝を飾り,初の総合優勝に輝いた。2009年にも世界選手権大会で滑降およびスーパー大回転で金メダル,ワールドカップでも 2度目の総合優勝を勝ちとった。2010年にはバンクーバー・オリンピック冬季競技大会で滑降の金メダル,スーパー大回転の銅メダルを獲得したのに続き,ワールドカップで 3シーズン連続の総合優勝。さらに 2009―10年シーズンにはワールドカップの滑降,スーパー大回転,複合のタイトルを勝ちとって合計でワールドカップ 33勝とし,ボディ・ミラーの全米記録を破った。2012年に 4度目のワールドカップ総合優勝を果たした。

ボン
Bonn

ドイツ西部,ノルトラインウェストファーレン州南部の都市。ライン川沿岸に位置する。 1949年以降西ドイツの首都であったが,90年東西ドイツの統合に伴い,ベルリンが首都に定められた。北ドイツ低地のケルン湾入部からミッテルゲビルゲ (中位山地) に移る地点にあり,古来,交通・軍事上の要地で,ローマ人が城塞を築いた (50頃) 。4世紀にフランク人が修道院を中心に集落を形成。その後,周辺の漁業集落などを合せて中世都市を形成。 1273~1794年にはケルン選帝侯兼大司教の居地となった。 1700年頃に建設された選帝侯の城館は,1818年以来,総合大学に利用されている。美しい風景に恵まれ,年金生活者の多い住宅・別荘都市ならびに大学都市として知られてきたが,西ドイツの首都となって以後は変貌。ドイツ連邦共和国政府諸機関,外国公館が多数立地し,行政・住宅機能が急激に拡大強化された。左岸上流のバートゴーデスベルクや対岸のボイエル,ケーニヒスウィンター,バートホンネフなどで郊外化が進み,69年に市域を拡張した。市の中核は,広場・市庁舎・聖堂などのある旧市街,大学地区,連邦行政地区に分れている。工業では,陶磁器,事務用機器,化学製品,医科学機器の生産に特色がある。ベートーベンの生地で,音楽,演劇などの文化活動が盛ん。現在連邦議会および政府はなおボンに所在しているが,21世紀初頭には,いずれもベルリンへ移転の予定である。人口 31万9841(2010)。

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百科事典マイペディア 「ボン」の意味・わかりやすい解説

ボン

ドイツ西部,ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。ケルンの南約15km,ライン川に臨む。ボン大学,ポッペルスドルフ宮,ミュンスター教会やベートーベンの生家などがある。起源はケルト人の集落と推定され,ローマ時代は軍団の駐屯地であった。1265年―1794年はケルン大司教の居住地。1949年―1990年西独の首都,1969年隣接の10市町村を合併。32万7900人(2011)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ボン」の解説

ボン
Bonn

ライン川左岸のドイツの都市。ローマ帝国時代は軍隊宿営地カストラ・ボネンシア。12世紀以降ケルン大司教領に属し,1815年以後プロイセン領。1949年ここで西ドイツの憲法制定会議が開かれてボン基本法が成立,ドイツ連邦共和国の発足とともに,ここが暫定的に首都となった。ベートーヴェンの生誕地としても知られる。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ボン」の解説

ボン
Bonn

ドイツ連邦共和国の西部,ライン川に臨む都市
ケルン集落,ローマ要塞をへて,13〜18世紀にケルン大司教所在地として栄えた。1949年の憲法制定議会でここが西ドイツの臨時の政府所在地となったがドイツ統一により,90年に首都はベルリンに戻った。ベートーヴェンの生地としても知られている。

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