聖宝(しようぼう)(理源大師)を派祖とする真言密教系の修験教団。金峰山(きんぷせん),大峰山をはじめとして,熊野三山,葛城山を修行の根本道場とした。聖宝の金峰山復興と入峰(にゆうぶ)修行がもとになり,その跡を慕う近畿地方の真言系山岳寺院の修験者が相寄って〈大峯正大先達(せんだつ)衆〉の集団を結成した。伝えによれば,この正大先達は聖宝が大蛇を退治して入峰を再興した際に供奉(ぐぶ)した36所の先達であり,これらは醍醐天皇の勅願寺であったともいうが,実際のところは明らかでない。しかし,正大先達の仲間文書(大和郡山市松尾寺蔵)によれば,16世紀の中ごろから後半にかかるころ,大和を中心に近畿地方に35~36の先達出職の寺院の存在が知られる。正大先達はそれぞれ諸国の同行(どうぎよう)袈裟下修験を支配し,これを引率して毎年大峰山の5月の花供峰(はなくのみね),7月の逆峰(ぎやくのみね)に集団入峰し,峰中儀式を執り行った。一﨟の大宿は舒明天皇の勅印,二﨟の二宿は役行者(えんのぎようじや)の霊印というものを相伝し,入峰の際峰中小笹において官職補任状の実名の下に押してこれを許した。
慶長年中(1596-1615),本山派との間に袈裟争いが起きたのを機に,当山先達衆は派祖聖宝の開創になる醍醐寺三宝院の義演准后にその折衝方を依頼し,棟梁になることを願った。1613年(慶長18)徳川家康は,修験道は筋目によって入峰し,諸役など当山本山互いに混乱あってはならないと裁断したが,当山方に対しては三宝院を通じて発令されている。それ以後三宝院門跡が当山派の法頭となり,大峯正大先達の上に君臨することになった。近世に入ると正大先達は休職するものが続出し,1679年(延宝7)には大和の三輪山平等寺,内山永久寺,菩提山正暦寺宝蔵院,超昇寺,高天寺,霊山寺,松尾寺,吉野山桜本坊,紀州の高野山金剛峯寺行人方,近江の飯道寺岩本院,同梅本院,伊勢の世義寺の12ヵ寺となり,それが幕末まで存続する。
1668年(寛文8),三宝院門跡高賢准后は,みずからの大峰入峰を機に醍醐において山伏に出世諸官位の補任を免許し,山伏極官の先達法印が着用する磨紫金(ましこん)袈裟を許した。また元禄期になると,在地修験を支配するため新たな役職を地方に設けたり,袈裟筋を吟味することもあった。99年(元禄12)には江戸戒定慧院俊尊を直袈裟に転じ,大和の鳥栖鳳閣寺の住職を仰せつけ,衣体および座席などを正大先達なみとした。これにより江戸鳳閣寺を諸国総袈裟頭とし,その下知をもって当山方修験の差配,修験道の諸法式,公事の沙汰まで行わせるなど,法頭の立場で一派管轄の強化をはかった。
正大先達仲間には,幕末から明治の初めにかけて新しい加入もあったが,明治政府の神仏分離政策で大きな打撃をうけ,1872年の修験宗廃止令で解散を余儀なくされた。
→修験道 →本山派
執筆者:鈴木 昭英
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
醍醐寺三宝院を本寺とした真言系修験の宗派の一つ。醍醐寺の聖宝(しょうぼう)を開祖とし,天台系の聖護院を本寺とする本山派に対する。大峰入峰(にゅうぶ)を再興したと伝える聖宝を慕って,鎌倉末期に真言系の修験者たちが当山方大峰正大先達(せんだつ)衆を結衆したといわれる。室町末期の本山派との争いを背景に,醍醐寺三宝院に庇護を求め接近。1613年(慶長18)徳川家康により三宝院が法頭と認められ,当山派として確立した。大峰山中を拠点とし,現在は真言宗醍醐寺派に属する。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…このうち前者の熊野山伏は三井寺の増誉が熊野三山検校になったのを契機として,鎌倉時代末には,聖護院を総本山とする本山派とよばれる修験教団になっていった。一方後者の回国修験者も興福寺の後だてのもとに当山派と呼ばれる教団を作りあげた。しかし室町時代中期ごろから醍醐三宝院の管轄下に入り,聖宝を中興の祖に仮託して真言系の修験教団となっていった。…
※「当山派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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