日本歴史地名大系 「行沢村」の解説 行沢村なめざわむら 山形県:尾花沢市行沢村[現在地名]尾花沢市行沢中島(なかじま)村の南、丹生(にゆう)川の右岸段丘上に位置し、対岸南西は北郷坂本(きたごうさかもと)村。村内を横断する寒風沢(さぶさわ)越仙台道は東方吹越(ふつこし)(出羽)峠を越えて、陸奥国加美(かみ)郡(現宮城県加美郡)に通じた。地内に行沢式部の居館であったと伝える中世の館跡がある。元和八年(一六二二)山形藩領、寛永二〇年(一六四三)幕府領となり、安政二年(一八五五)からは松前藩預地。寛永一三年の保科氏領地目録には「延沢之内行沢」とみえ高三三九石余。延宝二年(一六七四)の検地では田高三一一石余(石盛二二ないし八)、この反別二〇町余、畑高四五石余(石盛八ないし二)、この反別一二町七反余、屋敷(石盛一〇)一〇、新田畑高三石余、反別一町余(安政六年「村明細帳控」石山文書)。 行沢村なめさわむら 山形県:山形市旧南村山郡地区行沢村[現在地名]山形市滑川(なめかわ)・前田町(まえだまち)妙見寺(みようけんじ)村の南東に位置し、馬見(まみ)ヶ崎(さき)川の支流滑川沿岸の山間に立地。笹谷(ささや)街道に沿う街村。雁戸(がんど)山より発する滑川は村内を北西流し、馬見ヶ崎川に合流する。最上氏改易後は山形藩領、明和元年(一七六四)幕府領、天保一三年(一八四二)再び山形藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高二九四石余。同一六年の定納一紙(鈴木文書)では高二六三石余、反別田二町六反余・畑一四町五反余(うち屋敷一町六反余)、ほかに城下諏訪(すわ)町・十日(とおか)町と妙見寺・平清水(ひらしみず)・前田・小白川(こじらかわ)の四ヵ村に出作地五町五反余がある。正保郷帳では田二二八石余・畑六五石余。「最上記」によれば寛文・延宝検地高二六三石余。 行沢村なめざわむら 群馬県:甘楽郡妙義町行沢村[現在地名]妙義町行沢村央を高田(たかた)川が東流し、東は古立(ふるたち)村、西は諸戸(もろと)村、南は菅原(すがはら)村、北は岳(たけ)村と接する。寛文郷帳では小幡藩領で、田方六九石九斗余・畑方七四石七斗余。元禄郷帳でも同藩領。江戸後期の御改革組合村高帳では旗本河田領、高一四七石余、家数二七。中山道坂本(さかもと)宿(現碓氷郡松井田町)の助郷を勤め、天明八年(一七八八)には同三年の浅間焼けなどによる困窮によって増助郷等救済願(山田文書)を出している。 行沢村なめざわむら 山形県:東田川郡朝日村行沢村[現在地名]朝日村行沢大鳥(おおとり)川の右岸にあり、対岸西・北は砂川(すながわ)村。上杉家浪人上野弥右衛門は庄内藩に仕えたが、のち当地に土着したという(筆濃余理)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高一五六石余。正保郷帳では田高九一石余・畑高一石余。元禄九年(一六九六)には家数一三・人数一〇〇(「本郷組宗旨寺判指上帳」鶴岡市郷土資料館蔵)。文政二年(一八一九)の高人数改帳(同館蔵)によれば人数一四二。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by