日本歴史地名大系 「馬見ヶ崎川」の解説 馬見ヶ崎川まみがさきがわ 山形県:山形市馬見ヶ崎川蔵王山の主峰熊野(くまの)岳の北東斜面八方(はつぽう)沢を源とし、熊野岳北西の三宝荒神(さんぽうこうじん)山・瀧(りゆう)山と続く連山から流下する葉(は)ノ木(き)沢・不動(ふどう)沢を左岸に、雁戸(がんど)山南西の雁戸沢を右岸に合せる。山地から平野に出る出口の防原(ぼうばら)町で雁戸山北麓から笹谷(ささや)峠に連なる山地から流下する滑(なめ)川を合せ西流する。当川は防原町を扇頭とする馬見ヶ崎川扇状地を形成、扇頭部と扇端との比高は約一一〇メートルの緩傾斜である。防原町から西流して小白川(こじらかわ)に至り、北北西に転じ、盃(さかずき)山西麓沿いから市街北東部をかすめ、高瀬(たかせ)川を合流し、山形市北西端の成安(なりやす)で須(す)川に合流する。なお高瀬川との合流点から須川へ注ぐ間を白(しら)川と通称する。白川を含む須川との合流点まで延長二二・四六三キロ、流域面積四三・八平方キロ。当川は扇頭部から扇央部では地下に伏流水となり、扇端部で湧出する。斯波兼頼以来の山形城下は扇端部に築かれ、近世の城下町では、宮(みや)町の鳥海月山両所(ちようかいがつさんりようしよ)宮境内の金井(かない)、下条(しもじよう)町の地蔵(じぞう)清水、二の丸外の孝行(こうこう)清水、上町(うわまち)清水・五日町(いつかまち)清水などの湧泉があり、これら湧水を城下の堀水にも利用していた。名称の由来については、釈迦堂(しやかどう)の法来(ほうらい)寺由来では白馬に釈迦像を乗せてやってきた神僧にちなむといい、また鳥居忠政が当川の堤防を築いたとき盃山で馬上から川原を見渡し、工事の指揮をしたことによるという説、川岸の崩崖下が淵になっているところをマミといったことによるという説などがある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by