滑川村(読み)なめかわむら

日本歴史地名大系 「滑川村」の解説

滑川村
なめかわむら

[現在地名]日立市滑川町一―三丁目・滑川町・滑川本なめかわほん町一―五丁目

東は海に臨み、村の北寄りを北川が東流し、西は鞍掛くらかけ(二四七・六メートル)の東麓をなし、その裾を岩城相馬いわきそうま街道が通る。南は宮田みやた村に接する。鞍掛山東麓とその東南に開ける海岸段丘面上に北田中きたたなか遺跡・モガキたいら遺跡・曲松まがりまつ遺跡・寺台てらだい遺跡・滑川一里塚なめかわいちりづか遺跡・向畑むかいはた遺跡・浜館はまやかた遺跡・金木場かなきば遺跡および滑川浜なめかわはま古墳・滑川横穴群など、縄文時代早期から古墳時代後期の遺跡が点在する。

元禄郷帳に「滑川村」と記され、天保一五年(一八四四)の滑川村鉄会所取立願書(佐藤さき家文書)によると、寛永一六年(一六三九)田尻たじり村から分村したとあり、村の東西一里六町余・南北二〇町余、当時の家数三〇〇余とあるが、「追々戸数相減り、凡弐百軒余之潰に相成」と記され、「水府志料」には文化初めの戸数一六三とある。


滑川村
なめかわむら

[現在地名]川内町滑川

中山なかやま川に流入する滑川に沿った山間集落。東は明河山みようがやま村、西は川之内かわのうち村に接する。村は南北に長く東西が短い壮年期の谷間に形成されており、明河山村の九騎くき海上かいしよう以外はすべて山で隔てられている。開発は九騎方面からであると伝え、源平争乱期と口碑にいう。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)周布しゆうふ郡の項に「滑川村 林山有」とみえ、村高一一九石、うち田三四石五斗、畑八四石五斗とあり、山畑が多い。


滑川村
なめがわむら

[現在地名]下総町滑川

猿山さるやま村の南西利根川右岸に位置し、北は同川を挟んで常陸国稲敷いなしき金江津かなえづ(現茨城県河内村)。応永三三年(一四二六)四月一〇日の大須賀朝信証状(大慈恩寺文書)大慈恩だいじおん(現大栄町)当知行領の一所として「滑河村内」とみえ、面積は同年八月の大慈恩寺寺領注進状案(同文書)に三反とある。また元亀四年(一五七三)三月四日の大須賀政朝証状(同文書)などにも滑河村がみえる。文禄三年(一五九四)の香取郡滑川村御縄打水帳(船橋市西図書館蔵)が残る。初め幕府領であったが、のち佐倉藩領となる(安永元年「村明細帳」青柳家文書)


滑川村
なめがわむら

[現在地名]須賀川市滑川

中宿なかじゆく・下宿両村の北、阿武隈川西岸の平地と丘陵に立地。地内を東流してきた滑川が阿武隈川に合流する。奥州道中は村境の白石しろいし坂を越え、主集落と北の十貫内じつこうじ集落を抜ける。村名は板滑が多かった岩瀬川(滑川の古名)の合流点に由来するとか(岩瀬風土記)、中世二階堂氏が本拠の鎌倉の地名を移したとかいわれる(元和老人物語)。「奥陽仙道表鑑」に、永禄元年(一五五八)二階堂氏家臣滑川修理が柏木かしわぎ館を築き居住、天正一一年(一五八三)田村友顕が二階堂氏を攻めて当地まで押寄せたが、柏木館方の防戦で敗れたとある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に滑川とみえ、高三一六石余、天野五右衛門尉の知行地

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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