日本歴史地名大系 「西寺跡」の解説
西寺跡
さいじあと
平安京の官寺として造営された東西二寺の一つ。現存しない。跡地は国指定史跡。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔創建〕
造営は、ほぼ平安遷都と時を同じくして開始されたと思われるが、史料上では、遷都三年目の延暦一五年(七九六)に、藤原伊勢人が東西両寺の造寺長官に任命されたとあるのが早い(帝王編年記)。翌一六年四月四日には造西寺次官として笠朝臣江人の名がみえ、同一九年四月九日には東・西両寺に限って、伊賀国の「巨樹直木」の伐採が認可されている(類聚国史)。この前後、東寺とともに造営が進められていたことが推測され、造西寺長官として坂上田村麻呂・藤原鷹養・田中清人・三島年継らが任命されている(「日本後紀」延暦二三年八月七日条など)。弘仁三年(八一二)二月三日、西寺に対して障子四六枚が施入され(日本後紀)、同時に東・西両寺に食封一千戸と墾田七七二町が施入された(東大寺要録)。さらに翌年一月一九日には東・西両寺に初めて夏の安居が定められ、その布施供養は諸大寺の例に準ずるものとされている(日本後紀)。東・西両寺ともに、その寺基が整備されたのはほぼこの時期であると考えられるが、伽藍の完備にはなおかなりの年数を要したようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報