西寺跡(読み)さいじあと

日本歴史地名大系 「西寺跡」の解説

西寺跡
さいじあと

[現在地名]南区唐橋西寺町

平安京の官寺として造営された東西二寺の一つ。現存しない。跡地は国指定史跡。羅城らじよう門を中にして左京の東寺(左大寺、教王護国寺)と相対して位置し、右大寺とも称した。位置は平安京の右京九条一坊三保(一一町―一四町)、つまり南は九条大路、西は西大宮にしおおみや大路(現御前通辺り)、北は九条坊門ぼうもん小路(現東寺通)、東は皇嘉門院こうかもんいん大路(現七本松通辺り)を限る方二町の地を占め(拾芥抄)、寺観を誇った。中世初期に焼失・荒廃、その後の経緯は明確でない。発掘調査の結果、西寺町の唐橋からはし小学校・西寺児童公園などの所在地にその寺跡が確認されている。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建〕

造営は、ほぼ平安遷都と時を同じくして開始されたと思われるが、史料上では、遷都三年目の延暦一五年(七九六)に、藤原伊勢人が東西両寺の造寺長官に任命されたとあるのが早い(帝王編年記)。翌一六年四月四日には造西寺次官として笠朝臣江人の名がみえ、同一九年四月九日には東・西両寺に限って、伊賀国の「巨樹直木」の伐採が認可されている(類聚国史)。この前後、東寺とともに造営が進められていたことが推測され、造西寺長官として坂上田村麻呂・藤原鷹養・田中清人・三島年継らが任命されている(「日本後紀」延暦二三年八月七日条など)。弘仁三年(八一二)二月三日、西寺に対して障子四六枚が施入され(日本後紀)、同時に東・西両寺に食封一千戸と墾田七七二町が施入された(東大寺要録)。さらに翌年一月一九日には東・西両寺に初めて夏の安居が定められ、その布施供養は諸大寺の例に準ずるものとされている(日本後紀)。東・西両寺ともに、その寺基が整備されたのはほぼこの時期であると考えられるが、伽藍の完備にはなおかなりの年数を要したようである。

〔伽藍整備〕

日本紀略」天長三年(八二六)三月一〇日条に「奉為柏原天皇、於西寺七个日法華経」、同九年七月五日条に「西寺講堂供養御願新造仏」とみえ、主要堂宇はこの頃には成っていたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「西寺跡」の解説

さいじあと【西寺跡】


京都府京都市南区唐橋にある寺院跡。平安京造営の際、現在の唐橋西寺公園一帯には中央を南北に走る朱雀大路の南端、羅城門を中心に東側に東寺、西側に西寺が国家鎮護のために官寺として建立された。その西寺と東寺は左右対称の位置にあり、現在も創建当初の位置に遺構が残っている。空海に下賜された東寺が真言宗の寺院として発展していく一方で、守敏僧都(しゅびんそうず)に下賜されて長く官寺として支えられていた西寺は、律令国家の衰退や伽藍(がらん)が火災にあったこともあり、荒れ果てていった。現在は唐橋西寺公園内に講堂跡といわれる土壇が残り、西寺の名残として石碑が建てられて、毎年、松尾祭の還幸祭(かんこうさい)には神事が催されている。また、最近の発掘調査の結果、1辺が2.2mもある井戸跡も発掘されている。平安京復元の貴重な史跡として、1921年(大正10)に国の史跡に指定された。JR東海道本線西大路駅から徒歩約8分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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