西明寺村(読み)さいみようじむら

日本歴史地名大系 「西明寺村」の解説

西明寺村
さいみようじむら

[現在地名]上野市西明寺

上野村の東、下友生しもともの村の北。東部の三反田さんたんだ周辺にわずかに条里の遺構がみとめられる。中央を荒木あらき山に発するくるま(現矢谷川)が西流し南の比高約一五―二〇メートルの河岸段丘上の長者屋敷ちようじややしきに国分寺跡、その東に長楽山ちようらくざん廃寺跡(国分尼寺跡)があり、両廃寺跡の間を通る道は古東海道と考えられる。壬申の乱に大海人皇子がここを通り、「萩野たらの(荒木村のダラに比定)に至ったといわれる。ダラの南の広戸ひろとはとみねは当村の飛地。村名の寺院があったといわれ、「准后伊賀記」は「斎妙寺」と書き、開基の慈円の木像を安置していたと記すが、確証はない。

暦応三年(一三四〇)の馬野雑掌了珍謹言上(三国地志)に、「被停止当国住人(中略)、三明寺孫次郎已上不知実名已下輩濫妨狼藉」とみえる三明寺は西明寺孫次郎といわれる。


西明寺村
さいみようじむら

[現在地名]西木村西明寺

檜木内ひのきない川中流東岸、対岸は小山田こやまだ村、東の五〇〇メートルほどの山地は西明寺山とよばれ、田沢湖から流れる潟尻かたじり川が山地の間を流れ、檜木内川に合流する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に六八〇石とある。享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)に家数一六軒とあり、本田高三七七石九斗六升四合は免五ツ七歩、四〇石余が免五ツ五歩、ほかに四ツと四ツ五歩の新田が一〇〇石余あり、本田新田合計当高四六九石一斗七升五合とある。支郷は松野木台まつのきだい村・潟野かたの村・田野沢村小山寺こさんじ村・さそう田村・荒町あらまち村・大久保田村の七ヵ村で、家数は六七軒。


西明寺村
さいみようじむら

[現在地名]福岡町西明寺

下向田しもむくた村の北西、西明寺川に沿った谷間に立地。栃谷とちたに村から流れ出る谷川と、下向田・上向田両村の山から流れる平滝ひらたき川が当地で合流して西明寺川となり、下向田村土屋つちや村境で小矢部おやべ川に合流する。元和五年(一六一九)の家高新帳に西明寺村とみえ役家数八、三日市組に属した。正保郷帳では高二〇八石余、田方一一町三反余・畑方二町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二三七石、免六ツ、小物成は山役一五六匁(三箇国高物成帳)


西明寺村
さいみようじむら

[現在地名]日野町西明寺

北畑きたばた村の北、竜王りゆうおう山の西麓に位置する。集落は東谷ひがしだにと西谷の二つに分れ、南端八丁野はつちようのには出郷が成立。地名は地内の古刹西明寺にちなみ、平安期から中世にかけては日野牧として推移。また西隣の小野この村は近世初頭まで当村のうちであったと思われ、その後も同村地内に飛地領を有していた。現神崎郡永源寺町藤切ふじきり神社所蔵の応永二八年(一四二一)三月二八日の奉加記録に「一貫文 西明寺」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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