西木村(読み)さいぎむら

日本歴史地名大系 「西木村」の解説

西木村
さいぎむら

[現在地名]宇佐市西木

やま村の北、北流する向野むくの川の右岸に位置する。北は苅宇田かりうだ村、向野川を挟んで西は岩崎いわさき村。村の中央に溜池五次郎ごじろう池があり、集落は東部の徴高地に、田地西部の向野川沿いの平地に展開する。永仁五年(一二九七)九月日の田部信房申状(日名子文書)で、封戸郷司田部信房が徳政による打渡しを求めた郷内田畠のうちには佐井木九郎公冬や佐井木右馬太郎(凡下)・「佐井木ノキサウシ」(凡下)などの知行があった。永禄一〇年(一五六七)三月七日の大宮司宮成社恩地坪付(宮成文書)では封戸ふべ郷内の一所として「西木分三町五(反)」があり、天正一五年(一五八七)六月三日の宮成公基所領坪付(同文書)にも「西木三町七段卅代村有之」とみえる。

西木村
さいぎむら

[現在地名]城南町島田しまだ 才木さいぎ

島田村に隣接する水田湿地帯。才木とも表記する。浜戸はまど川氾濫地域に位置する。元応二年(一三二〇)六月一日の後家慈妙田畠屋敷中分状案(相良家文書)に「佐恵木里」としてみえ、中世隈牟田くまむた五郎丸ごろうまる名の一部で、この年、慈妙と領家との間で田畠等の分割が行われた。なお慈妙は、元徳二年(一三三〇)には「佐恵木村地頭」であった(同年二月二五日「詫磨貞政売券」詫摩文書)。正平九年(一三五四)南朝方について戦った津奈木某は「隈牟田庄佐慧木村」にあった「相伝私領」の田地二町・屋敷一所の安堵懐良親王に求めた(同年閏一〇月日「津奈木某申状案」相良家文書)

西木村
にしきむら

面積:二六五・五七平方キロ

仙北郡北西部に位置し、東は田沢たざわ湖の外輪山、西は出羽山地に挟まれ、南流する檜木内ひのきない川の流域にある。川に沿って国道一〇五号(阿仁街道)が通り、阿仁あに銅山(現北秋田郡阿仁町)へ仙北地方の米が運ばれた。第二次世界大戦後、阿仁田沢総合開発計画のなかで角館かくのだて町と北秋田郡鷹巣たかのす町を結ぶ国鉄鷹角線の計画が進行し、現在角館線として下檜木内の松葉しもひのきないのまつばまで営業している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報