日本歴史地名大系 「西条山」の解説
西条山
さいじようざん
「甲陽軍鑑」などにみえる山名で、永禄四年(一五六一)の川中島合戦において、越後の上杉謙信が本陣を敷いた山。のちの地誌・紀行類では「妻女山」とも記された(「千曲之真砂」など)。「謙信公御代御書集」の永禄四年(一五六一)八月二九日条によると、上杉政虎(謙信)は信濃出陣にあたり、長尾政景に以下のように後事を託した。
「甲陽軍鑑」によると、謙信が海津城攻略のために「西条山」に布陣したことを信州からの飛脚で知った武田信玄は、八月一八日に甲府を出立、同月二九日には二万の武田勢が海津城に入った。両軍はしばらく対峙したが、翌九月の九日、武田方は軍勢を二手に分け、うち一万二千は謙信が在陣する当山に向かい、残る八千は信玄・飯富三郎兵衛らが率いて川中島に進出。この動きを察知した謙信は、ひそかに当山を出て夜のうちに
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報