西用水(読み)かさいようすい

日本歴史地名大系 「西用水」の解説

西用水
かさいようすい

利根川中流域の埼玉県羽生はにゆう本川俣ほんかわまた取水口とし、古利根ふるとね川の琵琶びわ溜井(現埼玉県幸手市)を経て、松伏まつぶし溜井(現同県松伏町)で東葛西用水を、瓦曾根かわらそね溜井(現同県越谷市)で西葛西用水を分岐した用水。享保年間(一七一六―三六)の用水体系の整備に至るまで、いくつかの段階があった。なお近代以降の都市化の進行により農地が消失し用水機能を失った下流域と、今なお存続している埼玉県下ではかなり事情を異としている。

〔近世前期〕

はじめ葛西井堀と称され、八条はちじよう領の悪水堀として慶長一八年(一六一三)に開削された。元和七年(一六二一)に一間余切広げられ、元荒川の瓦曾根溜井に取水口が設けられた。以来、元荒川から綾瀬あやせ川を経て古利根川旧河道(現中川)に設けられた亀有かめあり溜井へ水が送られるようになった。これは綾瀬川からの水が十分に行届かなくなった亀有溜井へ補水する意味があった。寛永六年(一六二九)には瓦曾根溜井に長さ八間・幅二間・高さ四尺五寸の圦樋が築かれている(以上「旧記壱」西方村古文書)。瓦曾根溜井へは江戸川を取水口とする中島なかじま用水が補水の役割を果した。同用水は中島村(現幸手市)で取水されたあと、いったん庄内古しようないふる川に落とされ、大塚おおつか(現埼玉県杉戸町)で再び堰上げられ、八丁目はつちようめ村・樋堀ひぼり(現同県春日部市)間で古利根川に入る。その後は松伏溜井から鷺後さぎしろ用水(逆川)を経て、瓦曾根溜井へ導かれた。中島用水の成立により松伏二郷半にごうはん新方にいがた・八条の各領が中島用水組合として組織され、延宝八年(一六八〇)以降は綾瀬川の堰止禁止に際し、新たに谷古田やこだ領・淵江ふちえ領が加わり、同組合は六ヵ領となった(葛西用水路沿革史)。中島用水は享保四年の川俣(幸手)用水模様替えまで、前期葛西用水として重要な役割を果した。

近世前期の葛西領の河川環境は現在とは大きく異なっていた。埼玉・葛飾両郡境を南下して葛西領に入った古利根川は猿ヶ俣さるがまた村で東に転じ、江戸川に合流していた。


西用水
かさいようすい

万治三年(一六六〇)関東郡代伊奈忠克(一名忠勝)開発と伝える幸手さつて領の用水路で、初め幸手領用水、のち川俣加かわまたか用水とも称した。下流は古利根ふるとね川とよぶが、その流路は羽生はにゆう本川俣ほんかわまた(現羽生市)で利根川から取水、羽生町場はにゆうまちば(現同上)北東から手子林てこばやし(現同上)三俣みつまた(現加須市)を経て篠崎しのざき(現同上)からあいの川の古道を流れ、川口かわぐち(現同上)から幸手領北側用水を分流、さらに古利根川伝いにわしみや(現鷲宮町)川崎かわさき(現幸手市)・幸手を経て上高野かみたかの(現同上)琵琶びわ溜井に貯溜され、中郷なかごう用水路・南側用水路によって幸手領の灌漑に用いられていた。その余水は古利根川に落され、中島なかじま用水を通り松伏まつぶし溜井から鷺後さぎご用水路に導流され、瓦曾根かわらそね溜井(現越谷市)に貯溜されて各領に用水が引かれた。

宝永元年(一七〇四)の関東洪水で幸手領中島(現幸手市)の中島用水路が埋没したので、幸手領ほか九ヵ領の農民は中島用水の模様替えを関東郡代伊奈忠順に訴願した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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