埼玉県東部の市。1986年市制。人口5万4012(2010)。利根川中流の沖積低地を占め,東を江戸川,西を古利根川が流れ,北は利根川旧河道の権現堂川を隔てて茨城県に接する。中心集落の幸手は江戸時代,日光街道と日光御成道の合流する宿場町として栄え,2・7の六斎市が立った。耕地の大半は水田で,江戸時代に新田開発が行われ県下有数の穀倉地帯となった。旧神扇沼(かみおうぎぬま)では1960年代末に土地改良事業が行われるまで掘上げ田が見られた。60年代末から東武日光線沿いを中心に住宅地化が進み,72年には日本住宅公団の幸手団地がつくられて,人口が急増した。工業団地の造成も行われている。権現堂川堤は桜の名所として知られ,91年には湛水被害防止のために権現堂調節池がつくられた。
執筆者:千葉 立也
日光街道第6次の宿駅。日光御成道が合する。江戸からの道程12里余。古くは下総国下河辺荘に属し,田宮とも呼ばれ薩手とも書かれたが,1641年(寛永18)ごろ幸手領は武蔵国に編入された。戦国期古河公方足利氏の被官一色氏の領地で,城が築かれ城山と称された。中世から鎌倉街道筋にあたる交通の要地で,町内は街道に沿って町並みをつくり,荒宿,仲町,久喜町,右馬之助町,牛村と区分され,名主を兼帯した問屋が4人,年寄が8人置かれ,交代で伝馬業務を務めた。古くから2・7の六斎市が立てられ,近郷商圏の中心として豪商が多かった。1843年(天保14)調べの《宿村大概帳》では,戸数962戸,人口3937人,旅籠屋は本陣,脇本陣を含め28軒を数えた。なお1833年の凶作には,地借・店借の困窮者が,米の安売りに応じない穀屋や豪商21軒を打ちこわすという騒動を起こしている。明治以降伝馬制の廃止で宿駅の機能は失われたが,商業都市として繁盛した。1875年当時の戸数は1014戸,人口4242人と増加の一途をたどっていた。
執筆者:本間 清利
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
埼玉県北東部にある市。旧幸手町は、1889年(明治22)町制施行。1954年(昭和29)行幸(みゆき)、上高野(かみたかの)、権現堂川(ごんげんどうがわ)、吉田の4村と合併。1955年八代(やしろ)村と豊岡(とよおか)村、桜田村の各一部を編入。1986年市制施行。江戸川と、古利根(ふるとね)川に挟まれた沖積低地で水害に悩まされたが、利根川の瀬替えや改修、灌漑(かんがい)用水の建設により、穀倉地帯となった。東武鉄道日光線、国道4号が通じ、圏央道の幸手インターチェンジがある。江戸時代は奥州街道と日光御成(おなり)街道が合流する宿場町として栄え、2、7の日は市(いち)が立った。今日では、交通至便のため都心への通勤者が多く、都市再生機構の団地もある。また、北部を流れる中川沿いに幸手とひばりヶ丘の二つの工業団地が造成された。権現堂堤はサクラの名所で、1992年(平成4)には権現堂調節池(通称、行幸池)が完成した。正福寺(じょうふくじ)には1783年(天明3)の浅間(あさま)山の噴火降灰のため大災害を受け、名主が難民を救済したことにちなむ幸手義賑窮餓(さってぎしんきゅうが)の碑(県指定文化財)がある。面積33.93平方キロメートル、人口5万0066(2020)。
[中山正民]
『『幸手市史』全11巻(1994~2003・幸手市)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新