西街道
にしかいどう
高知城下より下灘の村々を通って幡多郡松尾坂に至り、伊予国宇和島に抜ける道で全長三三里半。「土佐国地誌提要」には「伊予路」とあるが、一般には西道筋とよばれ、本書では土佐街道(西街道)として記した。高知城下から幡多郡中村(現中村市)までを中村街道、中村以西を宿毛街道ともよんだ。御国村数名書帳によると、馬継は朝倉村(現高知市)、弘岡村(現吾川郡春野町)、高岡村・戸波村(現土佐市)、須崎村(現須崎市)、久礼村(現高岡郡中土佐町)、柿木山村(現同郡窪川町)、伊与木土居村・佐賀村(現幡多郡佐賀町)、入野村(現同郡大方町)、具同村(現中村市)、山田村・和田村・大深浦(現宿毛市)にあったとある。送番所について、御境目御番所へ道範覚は須崎までしか記さないが、「土佐国地誌提要」などを勘案すると、ほぼ馬継と同所であったと思われる。
〔中村街道〕
高知城下より幡多郡中村まで二六里の行程で、元禄土佐国絵図などによって道筋をたどると、高知城下上町の思案橋番所を出て西行、広さ一五間の「かん切川」(鏡川)を渡り、鴨部村(現高知市)で松山街道を分岐。
西街道
にしかいどう
府中から広瀬村へ吉野瀬川をさかのぼり、勾当原・湯谷・中山を経て越前海岸の今泉浦・河野浦(現南条郡河野村)に至る街道。敦賀湾の海運とも連絡して国府への物資輸送路として古代より利用されたと考えられるが、史料に現れるのは室町期以降で、運送業者の馬借が活躍した。寛正六年(一四六五)五月二一日付の府中小守護代一井平馬の禁制(写、宮川家文書)に「河野今泉並山内馬借等塩榑諸商売之事、両浦半分・山内半分宛可仕之事、並返荷之事、右之両浦三分二、同山内三分一、右塩榑直買・直売令停止之処也」とある。
当時の主要な輸送商品であった塩・榑の商売に関しては、河野・今泉両浦と山内馬借とが半分ずつ、返荷については両浦三分の二、山内三分の一と決め、これ以外の者の直接売買を禁止することとしている。河野・今泉の浦馬借に対して山内馬借とは、勾当原・湯谷・中山・別所、および八田(現南条郡河野村)など山間部に住む馬借の総称で、前記の禁制を受けて、翌六月二一日に勾当原村浄観以下一五名が連署した山内の馬借定書(西野家文書)が残る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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