見田村(読み)みたむら

日本歴史地名大系 「見田村」の解説

見田村
みたむら

[現在地名]菟田野町大字見田

平井ひらい村南方、見田川の谷間に立地。慶長郷帳の村高二七一・〇六石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)以降幕府領元禄検地により村高二九二・三七一石。「宇陀郡史料」所収の元禄八年の「覚」によれば田畑は五分で二毛作可能地は耕地の一割に及び、家数二七、人数(記載なし)観音寺、真宗道場、牛八、威鉄砲一からなっていた。

延享元年(一七四四)の村明細帳(見田の笹岡家文書)に「当村ハ不残沼田ニ而片作場ニ御座候」とあり、反別三一町六畝二一歩のうち荒地が二反九畝一六歩、水損場約二町(高二三石余)、「旱損之義ハ川上近ク御座候故、都而旱損場ニ御座候」状況にあったことが史料のうえからはうかがわれ、次のような愁訴を行っているが、結果は明らかでない。


見田村
みだむら

[現在地名]千代川村見田

鬼怒きぬ川と小貝こかい川の中間の純農村。かつては豊田とよだ川が村内を蛇行していた。南に唐崎からさき村・長萱おさがや村・伊古立いごだつ村が隣接し、当村を含め一村のごとくみえるところからヶ村とよばれ、元禄郷帳にも「四箇見田村」とある。また村域は東見田・西見田に分れ、東見田は古く「四ケ村の袋」といわれた。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「袋之郷 六十貫文 御年貢銭 斗物 百廿俵」「みたのむら 廿貫文 御年貢銭 斗物 四十俵」とある。


見田村
みんだむら

[現在地名]日南町福万来ふくまき

南から東へ流れを変える小原こばら川左岸に位置し、同川に北東流する笠木かさぎ川が合流する。東は下多田しもただ村。小原川の西対岸は葉侶よころ村。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「ミタ」と訓ずる。拝領高は四二石余、本免は五ツ七分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四九石余、竈数一〇。安政四年(一八五七)の切畑帳(日南町役場蔵)によると切畑五反余の高一石余、物成六斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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