観音堂村(読み)かんのんどうむら

日本歴史地名大系 「観音堂村」の解説

観音堂村
かんのんどうむら

[現在地名]金沢市観音堂町

犀川下流北岸、まつ村の西に位置する。北は寺中じちゆう村。三州寺号帳・貞享二年寺社由緒書上によれば卯辰うたつ山にあった真言宗賢聖坊(現廃寺)往時「宮腰寺中」にあって「佐那武観音」を本尊としたといい、地名はこの賢聖坊観音堂が所在していたことに由来するという(加賀志徴)中世臨川りんせん(現京都市右京区)大野おおの庄のうち。正中二年(一三二五)九月二四日の大野庄西条村等田数注文(天龍寺文書)に村名がみえ、地頭方に属したと推定され、総田数一三町九反二〇代、定田一二町二反一〇代(米一九〇石六斗四升八合)、畠五町三五代(大豆一五石二斗一升)、銭五三貫三七五文・綿八両二朱三累と注進されている。文明一四年(一四八二)・明応四年(一四九五)・同九年の各年の大野庄年貢算用状(文明一四年のものは鹿王院文書、ほかは天龍寺文書)によれば、応永一九年(一四一二)から村内散佃二反三〇代分の年貢米四石五斗六升六合や散畠二町の地子銭六貫文などが庄内円楽寺(京都臨川寺塔頭三会院末と思われる)による新河堀・新河付(河道開削)のために免除となっている一方、永和元年(一三七五)開の新畠二反(うち損畠一反)の地子銭三〇〇文、永享八年(一四三六)からは三郎二郎散田得分四石二斗などが請加となっている。


観音堂村
かんのんどうむら

[現在地名]城陽市字観音堂

現城陽市の中央部やや南寄りに位置する。北は富野との長池ながいけ宿、西と東は富野村、南は綴喜郡奈島なしま村。久世郡に属する。

地名はもと綴喜郡市辺いちのべ村にあった椎尾山観音寺が、中世期に兵火にかかって焼失した折に、観音像を当地に移して観音堂を建てたことによると伝える。現在村域の中央部、字西畑にしはたにある真言宗智山派光明こうみよう寺がこの観音堂にあたる。「都名所図会」に「椎尾山光明寺は長池の南、観音堂村にあり。


観音堂村
かんのんどうむら

[現在地名]豊後高田市平野ひらの 観音堂

大曲おおまがり村の北に位置し、田原たわら山北麓、かつら川左岸沿いの台地上に立地する。集落は近接した数ヵ所に散在しており、疎塊村を形成している(元禄二年「村絵図写」綾部家蔵)。江戸時代の領主の変遷は高田たかだ村と同様の推移をたどったと思われる。正保郷帳に村名がみえ、田方五石余・畑方一三石余、日損所で茅山・柴山・新田がある。田染たしぶ庄に属した。元禄二年(一六八九)の村明細書写(綾部家文書)では田方七反余・畑方二町五反余、家数一〇。安永三年(一七七四)の島原藩領郷村帳(島原半島史)では高一九石余、ほかに同所新田二石余がある。


観音堂村
かんのんどうむら

[現在地名]魚津市観音堂

かど川右岸の山麓にあり、対岸升田ますだ村、北は室田むろだ村、東は稗畠ひえばたけ村。「越中志徴」の引く郷村名義抄に「此所に昔年観音堂御座候に付、則村名に成候由申伝候」と記される。正保郷帳では高一八九石余、田方一二町四反余・畑方二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高一三六石・免五ツ二歩、明暦二年(一六五六)の新田高九石、小物成は鮎川役三匁、鮭役四匁(退転)である(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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