観音村
かんのんむら
[現在地名]西区観音町・東観音町・西観音町・観音本町一―二丁目・南観音町・南観音一―八丁目・観音新町一―三丁目
東は小屋川(天満川)を隔てて船入村(現中区)、西は川田川を隔てて川田村、北は沼田郡広瀬村(現中区)に接し、南は広島湾に面する。太田川の分流に挟まれた低く平らな新開地で、南方は干潟となって、近世から近代初めにかけ牡蠣などの養殖場として利用された。「知新集」に「慶長のはしめ開発せる由なれとも詳ならす」とあり、古名を「新蔵新開」といったが、観音堂があるため、後に観音村と改めたと記す。
観音村
かんのうむら
[現在地名]佐原市観音
下総台地北部に位置し、北は与倉村。西の鳥羽村境を成田道が通る。集落は与倉村に連なる北部の丘陵地に形成され、水田は丘陵の北と東の外周の谷に、畑地は村の西方に広がる。中世は大戸庄に属した。応安二年(一三六九)八月二七日の沙弥寿歓(国分胤詮)寄進状(房総古文書雑纂)によると、「大戸庄歓音村普駄下山」が大竜寺に寄進されている。同五年一〇月九日には「大戸庄観音村仁田大崎後家跡」の田二段が同寺に寄進されている(「沙弥寿歓寄進状」同雑纂)。
観音村
かんのんむら
[現在地名]会津高田町宮川
宮川上流左岸、松倉川との合流点の段丘上にある。南は落合村、北は魚淵村。南西に端村倉谷・松倉があり、松倉はもと北へ二里余離れた小山村の端村であったが、宝暦一二年(一七六二)当村に属した。もと当村は観音堂村といったが、寛文年中(一六六一―七三)堂の字を省いた。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、冑組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に観音堂とあり、高七三石余。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高八九石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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