諏訪形村
すわがたむら
[現在地名]伊那市大字西春近
藤沢川の南、西山の山麓の村で宮田北割(現上伊那郡宮田村)に隣接する。
天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は上、村高は「四百三拾八石九斗二升九合八勺 諏訪方」とある。
山麓の村ではあるが、開発が進むにつれて遠方の大田切山に水利や採草を求めてその争論に関係している。その主な山論に享保一〇年(一七二五)九月、宮田・諏訪形・中越(現上伊那郡宮田村)の三ヵ村がいっしょになって、幕府領支配入交りの上穂村や赤須村(ともに現駒ヶ根市)と大田切山のうち中御所山・北御所山について御立山・百姓持山・入会地等の区別を訴えた(大田切山入会山論宮田村返答書)もので、同一二年一〇月にそれぞれにつき幕府の裁許を得ている(大田切山入会山論裁許状)。
諏訪形村
すわがたむら
[現在地名]上田市大字諏訪形
千曲川南岸から小牧山北西斜面一帯にかけての村。集落は千曲川沿いに立地しているが、小牧山の山頂よりやや下った凹地に須川池があり、その北側山腹に須川の集落がある。東は小牧村、西は御所村、南は山林を隔てて下之郷、北は千曲川を隔てて常田村と境する。
小牧山の山腹・山麓に六ヵ所の古墳が確認され(諏訪形村誌)、諏訪の県の地域と推定される。また、「和名抄」に須波郷とあるのは千曲川北岸諏訪部から南岸諏訪形にかけての一帯であろうとされる。
中世は小泉庄に含まれると考えられ、天文一九年(一五五〇)七月、武田晴信は、真田幸隆に「其方年来之忠信祝着候、然者於本意之上、諏方方参百貫并横田遺跡上条、都合千貫文之所進之候」と、小県郡を平定した時は諏訪形の地と上条の地を与えることを約束した(「武田晴信宛行状」真田文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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