譚平山(読み)たんへいざん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「譚平山」の意味・わかりやすい解説

譚平山
たんへいざん / タンピンシャン
(1887―1956)

中国の政治家広東(カントン)省で苦力(クーリー)の子に生まれ、1920年北京(ペキン)大学を卒業。李大釗(りたいしょう)・陳独秀(ちんどくしゅう)と並び創設直後の中国共産党の三大指導者の1人。国共合作後は1924年に組織部長、1926年に農民部長・工人部長、1927年にはコミンテルン第7回大会に出席武漢政府の農民部長を務め、南昌(なんしょう)暴動に参加したことを理由に国民党共産党双方から除名され、1929年以来香港(ホンコン)で第三党の政治活動を続けた。1938年、国民党籍を回復、1945年には三民主義同志連合会を結成、1948年には国民党革命委員会の常務委員、新中国の建設に参加して中央人民政府委員、1954年全国人民代表大会広東省代表などを務めた。

[加藤祐三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「譚平山」の意味・わかりやすい解説

譚平山
たんへいざん
Tan Ping-shan

[生]光緒12(1886).9.28. 広東,高明
[没]1956.4.2. 北京
中国の政治家。 1920年北京大学を卒業し,中国共産党に入党陳独秀李大しょうとともに初期の共産党を指導した。 23年国共合作下の国民党に入党し,組織部長のち農民部長,工人部長を歴任。 26年モスクワで開かれたコミンテルン第7回大会に中国代表として出席し,中央執行委員に選ばれ,帰国後国共分裂のなかで 27年共産党から除名された。のち中国国民党臨時行動委員会を組織。 45年三民主義同志会を結成して 48年国民党革命委員会に合流し,49年同委員会の代表として人民政治協商会議に出席。中華人民共和国成立後,全国人民代表大会常務委員会委員に選ばれた。

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百科事典マイペディア 「譚平山」の意味・わかりやすい解説

譚平山【たんへいざん】

中国の政治家。中国共産党初期の指導者。広東省の人。1924年の国共合作で国民党にも入り,その組織部長,1927年武漢政府の農民部長を歴任したが,1929年日和見(ひよりみ)主義者として中共から除名され,香港に亡命以後,三民主義同志連合会を結成して,再び中共支持に傾き,1949年9月には国民党革命委員会代表として人民政治協商会議に出席した。解放後は全国人民代表大会常任委員,人民監察委員会主任。

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