中国の革命家、思想家。安徽(あんき)省懐寧(かいねい)出身。日本に留学し、東京高等師範学校速成科を卒業。東京で中国同盟会に入り、帰国後、口語(こうご)の新聞を発行した。1911年の辛亥(しんがい)革命に参加したが、一時、日本に亡命、1915年上海(シャンハイ)に帰り『青年雑誌』を創刊(翌年『新青年』と改題)。1916年北京(ペキン)大学教授となる。1918年に李大釗(りたいしょう)と『毎週評論』を創刊して新文化を提唱し、マルクス主義を宣伝して、五・四運動時期の急進的民主派となった。1920年上海で共産主義グループを組織し、1921年7月に中国共産党が成立すると、五・四運動時期におけるその名声により党の総書記に選出された。
第一次国内革命戦争の後期、陳独秀の代表する右翼日和見(ひよりみ)主義思想によって党内に投降主義路線が形成され、その結果、蒋介石(しょうかいせき)の四・一二クーデター(上海クーデター)を許すに至った。1927年8月7日の共産党緊急会議で総書記の職務を解かれたが、なお誤った政策をとり続けた。その後、革命の前途に失望し解党主義者となるとともに、トロツキストと結託して反共産党組織をつくった。1929年11月共産党から除名。同年12月彭述之(ほうじゅつし)など81名と語らい「政治意見書」を発表、中国共産党と紅軍に反対した。1931年に国民党に捕らえられて入獄、1937年8月釈放後はもっぱら共産党攻撃を行い、1942年に病死した。長らく変節者として悪名高かったが、1980年代に至り、一部にその功罪を客観的に評価すべきだという意見も出た。文集に『独秀文存』などがある。
[山下龍三]
『坂元ひろ子編『新編 原典中国近代思想史 第4巻――世界大戦と国民形成』(2010・岩波書店)』
中国の革命家。号は実庵。安徽省懐寧出身。活動内容からいえば彼の生涯は民族主義者(1900-12),民主主義者(1913-20),社会主義者(1921-28),さらにトロツキスト(1929-)の4期に分かれるが,中国の社会と政治に最も大きな影響を与えたのは,急進民主主義者として五・四運動期の新文化運動を指導した第2期,そして中国共産党を創立し指導した第3期である。青年時代には反清の革命家として新聞記者,愛国会,秘密結社岳王会等の組織者として活動したが,辛亥革命の失敗が明らかとなってからは,それまでの会党式の組織方法による革命への反省から,国民の文化思想面での革新へと方向を転じた。袁世凱の恐怖政治のさなか,上海租界で《青年雑誌》(のち《新青年》と改題)を刊行し,中国に伝統的な封建意識を打破しようと試み,〈民主と科学〉を旗幟(きし)に〈反孔教〉(憲法から宗教,家庭,婚姻問題までを含む),〈文学革命〉等の言論活動を行った。蔡元培の招請で北京大学文科学長となり,盟友に胡適,呉虞,銭玄同,李大釗(りたいしよう)等を得て儒教主義的な古い世界観や意識に大きな打撃を与えた。またいわゆる文学革命の面でも中国文章史上画期的な口語文体(白話文)の確立に成功,作品面でも魯迅の《狂人日記》(1918)を生み,中国新文学の誕生を宣言した。こうして文化思想面に中国のルネサンスといわれる状態,のちにいう五・四新文化運動をまきおこした第一の功労者は陳独秀である。彼はこの運動,論戦を通じて再び軍閥支配の政治体制の打破へと向かう。
五・四運動ののち李大釗の影響もあってしだいに社会主義に近づき,上海で第三インター派遣のボイチンスキーと接触,中国共産党の創設に着手した。1921年7月第1回党大会を開き総書記に選ばれ,以後27年の八・七会議まで最高責任者として党を指導した。コミンテルンの指導に従い1924年の国共合作後は左派が優勢であった国民党を重視,北伐の期間を通じて国民党との協調を保つことに専念したため,27年4月の蔣介石による大清党にも無防備のまま党に莫大な損害を与えることになった。八・七会議で右翼日和見主義として批判され,コミンテルンの指導への疑問からトロツキストと結んで党内に反対派を結成,29年除名された。32年国民党政府に逮捕され下獄,抗日戦勃発で釈放されたが,のち四川で病死した。生涯を通じて二転三転と表向きの顔を変えたのは,ものに拘泥しない大胆さと徹底さ,直情径行的なひととなりのためである。著書に《独秀文存》(1922)のほか《字義類例》(1925)など文字学の書もある。
執筆者:中島 長文
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1879~1942
中国民国時代の思想家,政治家。中国共産党の初期の指導者。安徽(あんき)省懐寧(かいねい)の人。日本とフランスに留学。第二革命の失敗で安徽省教育司長を辞め,上海で『青年雑誌』(翌年『新青年』と改題)を創刊,文学革命の旗手となった。のちに北京大学で教え,魯迅(ろじん),李大釗(りたいしょう),胡適(こせき)らの協力を得て新文化運動を広めた。五・四運動をへて1921年コミンテルンと接触し,李大釗とともに中国共産党を結成。初代委員長になった。以後,農民指導の方法などの路線をめぐり「右翼日和見(ひよりみ)主義者」の烙印を押されて失脚した。国民党の逮捕をへて釈放後は反共に転じたが,失意のうちに没した。
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…二全大会当時には,労動組合書記部機関誌《労動週刊》は発禁,理論機関誌《共産党》は停刊,《新青年》はきわめて不定期だったから,《嚮導》の果たした役割は大きい。主編は陳独秀,蔡和森が協力し,瞿秋白,彭述之,鄭超麟らの文章が多い。瞿秋白はまた中央機関誌《前鋒》(広州,1~3期,1923年7月~24年2月)をも主編した。…
…〈民主と科学〉を旗じるしとする雑誌《新青年》を中心に,中国の社会と文化を改革するためには,中国の封建体制の基礎となっている家族制度とそれを支えてきた孔子の教え(儒教)を否定せねばならぬ,という認識が進歩的知識人の共通のものとなった。陳独秀は〈孔子の道と現代生活〉など多くの文章で,孔子の思想が封建的なものであって民主主義とは両立しえないと主張し,呉虞は〈儒教の害毒は洪水猛獣〉のごとくはなはだしいものだと痛烈に批判し,魯迅は,儒教は〈人が人を食う〉教えであるとのべて《狂人日記》のなかで,人を食ったことのない(儒教に毒されぬ)子供を救え,と書いた。このほか,胡適,李大釗(りたいしよう),周作人,銭玄同,易白沙,高一涵など多くの人々が儒教の打倒を論じた。…
…前者は辛亥革命後の軍閥支配に抗して中国の出路をもとめていたインテリたちである。もっとも有名なのは,《新青年》に拠って新文化運動を展開した陳独秀,李大釗(りたいしよう),胡適,魯迅らのグループである。彼らは,民主と科学の旗をかかげ,中国の封建倫理の中核である孔子の教えを根底から否定しようとした(打倒孔家店)。…
…国故とは国学,すなわち中国の伝統的学問。1915年9月,陳独秀は《青年雑誌》(1年後《新青年》と改題)を創刊し,彼が西洋近代の基礎と考えた〈民主と科学〉を旗じるしとして新文化運動をはじめた。そこでは中国のいっさいの伝統が否定され〈聖人を尊ばず,古えを尊ばず,国粋を尊ばず〉といった西洋崇拝と中国蔑視の風潮があらわれた。…
…中国近代の代表的総合雑誌。1915年9月,陳独秀が上海で《青年雑誌》として創刊,翌秋の第2巻1号から《新青年》と改名し,22年7月に9巻6号を出した(1巻は各6冊)。その後季刊4冊,不定期刊5冊が出され,最終号は26年7月の〈世界革命号〉である。…
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[創立期(1919年5月~23年5月)]
ロシア革命の思想的影響と五・四運動の体験を通じて,中国の急進的知識人のあいだにマルクス主義への関心が高まり,1920年春以降,コミンテルンの働きかけと支援を受けて結党の準備が進んだ。陳独秀,李大釗(りたいしよう)がその中心となり,8月,上海で臨時中央(発起組)を発足させ,同時に外郭の半公然組織として社会主義青年団を結成して進歩的青年の結集につとめた。つづいて北京,武漢,長沙,広州,済南,東京(日本)にも支部(小組)が組織され,在ヨーロッパの留学生のなかからも運動が起こった。…
…そのきっかけを作ったのは,胡適が17年1月に雑誌《新青年》に発表した〈文学改良芻議〉で,形骸化した文語文にかわって俗語・俗字を使用し,〈今日の文学〉をつくろうというその主張は,大きな衝撃を与えた。ついで,陳独秀が〈文学革命論〉を発表してこれに呼応し,〈国民文学〉〈写実文学〉〈社会文学〉を提唱するにおよんで,〈文学革命〉は時代の合言葉となった。文学革命に最初の実体を与えたのは,魯迅の短編《狂人日記》(1918)であった。…
…中国文学の正統性を唐・宋にはじまる白話俗文学の流れにこそ認めるべきとも断じたこの論文は,〈改良〉あるいは〈芻議〉(未定稿)と標題しているとはいえ,まさに画期的・革命的なものである。 この胡適論文をいちはやく支持し,かつ文学革命の旗を正式に掲げたのが,《新青年》の主宰者でもあった陳独秀で,彼はその翌号に〈文学革命論〉を発表,当代の社会や文明となんら関係をもたぬ,美辞麗句をつらねただけの陳腐で難解な貴族古典文学を打倒し,社会現象をも反映する平易な国民写実文学の建設を提言した。それは,何ひとつ社会変革をともなっていない辛亥革命後の現状に目を向け,国民の精神領域での変革,儒教的倫理道徳の革命こそ真っ先の急務であるとうたったものでもあって,これにより文学革命は用語変革運動であると同時に,儒教倫理打破という使命をも帯びることになる。…
…1912年,北京大学と改称したが,当時はまだ官吏養成機関としての性格が強かった。17年,蔡元培が学長に就任して,陳独秀を文科科長に据え,李大釗(りたいしよう),魯迅などを招聘し,アカデミックな大学に改革して以来,名実ともに学問の殿堂としての陣容を整えた。19年の五・四運動の先頭に立ったのは北京大学の学生であった。…
※「陳独秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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